2020年05月28日 公開
2023年01月05日 更新
時代のパラダイムが大きく転換した幕末において、なぜ新選組は戦い続けたのか。現在発売中の月刊誌『歴史街道』2020年6月号では、「新選組と土方歳三の真実」と題して、彼らの生き方が現代に問いかけているものに迫っている。その特集記事の中から、最新研究とともに新選組の足跡を辿った、山村竜也氏の論考を紹介しよう。
江戸市谷柳町で天然理心流剣術道場をかまえる近藤勇のもとに、幕府が有志を募集して浪士組を結成するという情報がもたらされたのは、文久2年(1862)暮れのことだった。近く上洛する予定になっていた将軍徳川家茂に先立って京都に上り、現地で家茂の身辺警護をつとめることが当面の役目とされた。
当時、近藤のもとには門人の土方歳三、沖田総司、井上源三郎のほか、他流派の山南敬助、永倉新八、原田左之助、藤堂平助が食客として居候しており、彼らは近藤に従って上京することを決めた。日頃磨いてきた剣の腕を、国事のために役立てようというのだった。
ただし、最近発見された『浪士姓名簿』によれば、沖田と藤堂は「近藤勇方ニ同居」と注釈がつけられており、永倉も「右同断」とされているのだが、原田は住居についての記載がない。また山南は、「牛込廿騎町小谷陽之介地内ニ罷在候」と記されており、近藤家の近くに住む門人・小谷陽之介の家に同居していることがわかる。
つまり原田と山南は近藤家に居候していたのではなく、ほかに住居があったのだ。もちろん多摩の住人である土方と井上も実家のほうで起居していたから、のちに新選組の中核となる剣客たちが、近藤家に全員居候していたわけではないということに注意したい。
文久3年(1863)2月8日に小石川伝通院を出発した浪士組230余人は、中山道を通行し、同月23日に京都壬生村に到着した。ここで、近藤一門の運命を変えることになる事件が起こる。
浪士組の結成を幕府に献策した庄内浪士清河八郎が突如裏切り、浪士組は幕府のためではなく朝廷のために働くべきであると、一同の前で宣言したのだ。もともと尊王攘夷論者であった清河は、幕府の力を利用して浪士組を組織し、それを尊攘集団に転用しようと目論んでいたのである。
しかし、そんな清河の策謀に近藤らは乗らなかった。関白鷹司輔煕の命令により浪士組は江戸に引き返して攘夷実行にそなえるという清河に対し、
「われらは幕府の召しに応じて集まったものである。たとえ関白よりいかなる命令があったにせよ、将軍家よりの御沙汰がなければ、京の地は一歩も離れることはできない」
そう近藤はいい放ち、京都に残留することを表明した。水戸浪士芹沢鴨の一派らとも語らい、22人が浪士組を脱退。現地参加の者二人を加えて24人で新たな一党を立てることになった。
彼らは京都守護職をつとめる会津藩主松平容保に対して、将軍家茂が滞京している間だけでも自分たちの身柄を預かってほしいと願い出た。これが認められ、3月12日深夜、近藤らの会津藩お預かりが決定し、京都市中の治安維持を役目とする壬生浪士が誕生したのである。
壬生浪士の局長(隊長)となったのは、芹沢鴨と近藤勇の二人。副長には土方歳三と山南敬助、芹沢派の新見錦がつき、沖田総司以下の有力者は副長助勤と称する幹部職に就任した。
彼らは京都、大坂で新入隊士を募集して五十人ほどの陣容を整え、尊王倒幕をとなえる諸藩の浪士たちを日々取り締まった。その働きぶりは預かり主の会津藩を満足させるもので、将軍家茂が江戸に帰ったあとも継続して任務にあたるよう命じられた。
武士の鑑である忠臣蔵を意識した羽織も作られ、それが隊の制服となった。また「誠」の一字をあしらった隊旗を掲げて、その旗のもとに自分たちの信じる武士道を追求しようとした。
しかし筆頭局長の地位にあった芹沢は乱暴な性格で、商家からの押し借り、遊郭での狼藉など問題行動が目立った。これでは会津藩の評判を落とすことになると危惧した藩公用方はやむなく近藤を呼び出し、芹沢の処置を命じたのである。
9月18日、隊の宴会が島原でおこなわれた夜、泥酔した芹沢が屯所の八木邸で寝入っているところを、近藤の意を受けた土方、沖田、山南、原田が襲撃した。神道無念流免許皆伝の芹沢も、寝込みを襲われてはどうすることもできず、配下の平山五郎とともに斬殺される末路をとげた。
この直後、近藤を唯一の局長とする新体制が発足し、会津藩から新しい隊名が与えられた。それが、「新選組」である。
会津藩には、江戸時代中頃に新撰組と称する藩主の親衛隊があり、武芸にひいでた藩士の子弟30人が任じられていた。その伝統ある隊名にふさわしい存在と、近藤らは見なされたのだろう。
ちなみに新選組の「せん」の字は、「選」と書く場合と、「撰」と書く場合が見られる。新選組の当事者でも「しんにょう」で書く者と、「てへん」で書く者がいたりして、どちらが正しいのか判断が難しいとされているのだが、実はそういう議論はまったく無意味なものだった。
なぜなら当時は、てへんの「撰」と、しんにょうの「選」は、特に区別せず使われていたものだからだ。明治維新以降にこの二つは別の漢字として扱われるようになったが、江戸時代においては厳密な区別はなかった。そのため、両方の表記が混在することになったのである。
そうである以上、「撰」にこだわる必然性はあまりなく、また「選」のほうが文字のバランスがいいようにも感じるため、私はいつも「新選組」の表記を使うことにしている。
次のページ
評価を変えた池田屋事件~小隊編成は十隊か八隊か >
更新:11月24日 00:05