2015年04月25日 公開
2019年03月27日 更新
こんばんは。今日は平成27年4月25日(土)です。
慶応4年4月25日(1868年5月17日)、新選組局長を務めた近藤勇が板橋で処刑されました。
近藤が処刑された板橋には、明治に入ってから永倉新八や松本良順らによって、近藤勇、土方歳三の墓碑が建立され、毎年、4月25日には墓前で供養祭が営まれています。
今日は土曜日でしたので、久々に板橋まで出かけてみました。旧暦の命日に板橋駅前の近藤の墓碑を訪ねるのは、高校生の時以来。その時は供養祭をしていた人たちに、「最近は若い人が来るようになったね」と言われたのを覚えています。時間が経つのは早いものです。
本日は、近藤勇の最期のくだりをご紹介してみます。
孤軍援〈たす〉け絶えて俘囚となる 顧みて君恩を思えば涙更〈さら〉に流る
一片の丹衷〈たんちゅう〉能〈よ〉く節に殉ず 推陽〈すいよう〉は千古是れ吾がともがら
他に靡〈なび〉き今日復た何をか言はん 義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所
快く受けん電光三尺の剣 只に一死をもって君恩に報いん
近藤の辞世の漢詩です。節義を重んじる近藤の思いが表われています。「一片の丹衷」とはわずかな真心、「推陽」は中国の地名で正しくは手偏でなく目、唐の時代の安禄山の乱の際、太守が賊を防いだ地として知られていました。
「わずかな真心しか持ち合わせぬ私でも、節に殉じることは知っている。はるか昔、主君のために推陽を守った者たちと、私の心は一つである。節を曲げてまで、おめおめと何を言うことがあろうか。命よりも義を選択するのは、私が最も大切にしていることである」。そんな肉声が伝わってきます。
慶応4年1月の鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると、新選組は江戸に戻り、勝海舟の命で「甲陽鎮撫隊」として甲府城接収に向かいます。しかし新政府軍に先を越されて、3月6日、勝沼の戦いで敗れました。
鉄砲傷を負って鳥羽・伏見に参加できなかった近藤は、勝沼では陣頭指揮を執るものの敗北を味わい、再び江戸に戻ります。再起を期す近藤は足立郡の五兵衛新田で新たな隊士を募り、4月1日には隊士数は227人を数えるまでになりました。
新入隊士たちに洋式調練を施すため、同日、近藤らは下総流山に向かい、翌日には全隊士が流山に集結しました。ところが4月3日、流山に現われた近藤の隊を危険視した新政府軍が、近藤らのいる本陣一帯を包囲します。
折あしく隊士たちは調練で出払っており、本陣には近藤、土方ら僅かな数しかいませんでした。近藤は旗本・大久保大和として新政府軍本陣に出頭することにし(実際、改名していました)、周辺の治安維持のための隊であることを説明している間に、土方ら他の隊士らを脱出させます。
土方は、近藤の正体が露見する前に、勝海舟など旧幕府の要人を動かして近藤を新政府軍の手から救い出そうとしますが、うまくいきません。ほどなく、新政府軍に新選組から分離した加納鷲雄ら御陵衛士の残党がいたために、隠し立てはできなくなりました。
結果、近藤の正体は露見し、土方の近藤救出への奔走は実を結ばなかったのです。近藤は13日に板橋宿平尾の脇本陣・豊田家に幽閉。24日には滝野川の石山家に移され、翌25日の正午過ぎ、一里塚近くの馬捨場に急造の処刑場を設け、斬罪に処されます。
近藤の最期を池波正太郎の小説『近藤勇白書』は次のように描いています。
勇は、剃り終わった顔をぬれ手ぬぐいでふき、茶わんの水をもらい、ゆっくりと飲んだ。
「ながながと、厄介をかけました」
と、官軍の一人にあいさつする勇の声が、勇五郎にも飯田金十郎にも、はっきりと聞こえた。介錯は、横倉喜三次といって岡田藩から出ている剣士である。
(中略)
近藤勇が、その横倉の苦笑を見て、これもにっこりとした。安心をしたようである。
勇と横倉の眼と眼が合い、どちらからともなく、かるく頭を下げあった。
「では……」
と、横倉が刀をかまえる。
うなずいた勇は、みずから髻〈もとどり〉をつかみあげ、穴の前へ首をさしのべていった。
横倉が振るった刀は二王三郎清綱で、一説に処刑を覚悟した近藤自身が贈ったものともいわれるようです。当代一といわれた剣客を斬った横倉は、毎年近藤の命日には刀を取り出し、冥福を祈ったといわれます(辰)
近藤勇(国立国会図書館蔵)
更新:11月22日 00:05