近年の科学的な調査によって鉄のルートは1つではなく、3つあるといわれるようになった。一つは古代から文献に書かれていたルート。『魏志』東夷伝・辰韓の条に「国(辰韓)鉄を出す。韓、濊(わい)、倭みな鉄を用い、中国の銭を用いる如し」と記されている。
紀元前2世紀ごろから、倭人が漢の朝鮮半島南部の大河、洛東江周辺で採れる鉄製品を対馬海峡から輸入したと思われる。この鉄の流れは、対馬海流に乗って西から東に進む。
鉄斧、素環鉄刀など大きな製品やスクラップは東に向かうにつれ、鏃(やじり)、鍬(くわ)、ナイフなどに加工され、この国で平和的な製品として使用されるようになっていった。このベルトコンベアー的分業は、森浩一氏が今から半世紀前に発見している。
すなわち、原石と同じく、朝鮮半島の鉄製品がベルトコンベアーに乗って、次第に加工され製品化され東進する。
この時代鉄鉱石や砂鉄など天然素材から鉄をつくる製鉄(大鍛冶)の技術は、まだ日本では普及していなかったが、鉄の製品を小さな炉で熱し加工する技術(小鍛冶、昔の鍛冶屋)によって新しい鉄製品を鍛造することはできた。
一つの鉄の塊が玉石同様、繰り返し取引され、日本海を東に動くのに数年単位で遺跡をつなぎながら動いている。宝玉の流れと交差するように、鉄は逆に東に向かっていた。
20年前までは、邪馬台国が3世紀前半に成立し、女王・卑弥呼は奈良盆地にいたというのが一つの説になっていた。私は『[決定版]古代史の謎は「海路」で解ける』(PHP文庫)で、鉄を交易しない(正確には当時鉄の交易に参加していない)奈良盆地の集落(纏向遺跡など)が、倭国の盟主であるはずがないと記した。
まして、国家などは存在していない。卑弥呼も奈良盆地にはいないと書いた。多くの方々から批判を受けたが、最近は日本海側の交易に光が当てられ始めていると聞いているので、嬉しいかぎりである。
二つ目は、燕(えん)の様式の鋳造鉄斧や素環鉄刀が沿海州、朝鮮半島東側からリマン海流に乗って直接入ってきた点である。高句麗の南下に伴い、それに玉突きのように押し出された難民が持参し、あとに続いた。
その後の交易で、山陰、北陸沿岸に新しい世界をつくった。新しい世界とは技術革新である。高度な技術を持って渡来した集団によって、その地で鉄鋼産業が発展したのである。この時代から山越えをして、内陸にぼつぼつと鉄が入りだしたと考えられる。
三つ目のルートは国内である。福岡、熊本、大分の各県では九州北部で褐鉄鉱を使っての独自の小規模な鉄生産が行なわれていた痕跡がある。量はわずかで、域内で消費されたと思われるが、詳細はよくわからない。
日本海沿岸に不思議なことに玉つくりに秀でている集落があった。丹後と出雲である。弥生時代から古墳時代に移る時期、丹後半島では管玉、腕飾類など石製品、出雲には玉つくりの作業場が数多くでき、その高度な技術と生産量は傑出していた。
まず丹後であるが、弥生中期に京丹後市の赤坂今井墳墓、京都府与謝郡与謝野町の大風呂南一号墓などでは首飾り、腕輪などが大量に出土している。単なる製品だけではない。玉づくりやガラス管づくりの珍しい工具が数多く発見され、原石から製品までここでつくられていたことが明らかになった。
京都府与謝野町(広い意味で丹後)の加悦谷(かやだに)では環濠を張り巡らせた集落があり、玉の製造技術に欠かせない工具と青色の多量のガラスの管玉が発見されている墳丘墓があった。
また、京丹後市の奈具岡遺跡には碧玉、緑色凝灰岩や水晶など大量の原石、未完成品、失敗品、剥片類(はくへんるい)とともに石錐(せきすい)、石鋸(いしのこぎり)、砥石、鉄製工具が完全な状態で発見されている。
さらに、製鉄の鞴羽口(ふいごはぐち)や鍛治炉も発見され、良質の鋳鉄脱炭鋼を手に入れるルートとそれを研磨して高い精度の細かい工具をつくる技術もあったのである。
このような高度な技術をいきなり取得できるわけがない。非連続な高度の技術を持った集団が海を渡り、この地に下り立って技術を高めたと考える。
このような優れた技術はいつ、どこからもたらされたのか。西の対馬、壱岐から神々が降臨する以前から、これらの地と深い結びつきがあったと考える。丹後の高度な玉つくりにはこの地に高度な鉄製品の加工技術があったことが、遺構からわかったのである。
出雲地方でも、松江市玉湯(たまゆ)町、玉造温泉の東の山・花仙山(かせんざん)の麓で産出するメノウを採掘し、勾玉つくりを行なってきた。『出雲国風土記』に天皇家の長寿、国家安泰を願って玉を献上した記録が残っている。
さらに、松江の平所遺跡の水晶玉については、同じ形の製品が平壌の楽浪古墳から出土していることなどから、朝鮮半島との技術的結びつきがあったといえる。
水晶の原石は、朝鮮半島から入る。技術も半島から来たと考えられる。その技術力は高く、長い強度のある針によって片面穿孔(通常は両側から孔[あな]をあける)が行なわれた。
硬い水晶玉やメノウの玉つくりの技術は朝鮮半島の東海岸から、シルクロードのガラス玉は古くから中国との結びつきがあったと考えている。
丹後で特筆すべきは、首飾り、胸飾りなどに使われている色鮮やかな青いガラスの勾玉、管玉である。京丹後市の三坂神社墳墓、左坂墳墓付近を中心に、丹後からの出土総数は一万点以上になる。
ガラスの製法技術は古代メソポタミアから伝わったものであり、門外不出の貴重なものであった。ガラスは、微細な金属を入れている壺で熱して青色を出す。独特な海の色のような青い色の勾玉、管玉は、威信財として丹後から全土に広がった。
200年以上にわたり様々なガラスがつくられたが、日本では採れない材料もあり、中国などから輸入、丹後のみで加工して製品化したと考えられている。吉野ヶ里遺跡も同じような青色のガラス管が出土しているが、工房はなく製品が直接中国からもたらされたとされている。丹後の他には工房がなかったのだ。
ガラス工芸は、当時の最高の技術であった。丹後だけがこのような特殊ガラスの材料を得たのは、海を越えて西方との独自の交易ルートがあったためである。
黒潮の分流である対馬海流にのって、ガラスの材料、製品、制作技術が渡ってきたため、丹後には朝鮮半島に近い壱岐・対馬との交流があったと自然に考えられるのである。
更新:11月23日 00:05