古代の日本人は縄文時代から、各集落を舟で結んで、玉やヒスイの取引を行なっていた。そして弥生時代になると凄い技術力のある集落が連合体を形成するようになる。彼らはどのような技術を持ち、どのような交易を行なったのか? 長野正孝氏が解説する。
※本稿は、長野正孝『古代史のテクノロジー』(PHP新書)の一部を再編集したものです。
古代において、玉や首飾りは貴重な交易品になった。古代から洋の東西を問わず、玉石を身に着けると霊が宿るとされていたからである。つまり、魂が宿る貴重な品として取り扱われていたのだ。
新潟県の糸魚川のヒスイ、北海道や長野県の黒曜石、秋田県のアスファルト、岩手県久慈の琥珀(こはく)などが取引されたのが確認されている。
船の遺構は残っていないが、津軽海峡もさることながら、運搬方法は川を丸木舟で運ぶこと以外は考えられない。紀元前4000年ごろから舟運ネットワークが東北、北海道全域に広がっていた証拠だといえよう。
その舟運ネットワークはどのようにできたのか。集落から一歩外に出れば熊、猪などのケモノに遭遇する。川の方が安全である。やがて、隣の集落同士助け合ってモノを運ぶ約束、ルールが広まってできあがったと考える。
青森県の三内丸山遺跡では糸魚川から船で原石のヒスイを運び込み、そこで加工して北海道内陸部に運んだという。この遺跡は大きな加工工場であった。数多くの糸魚川のヒスイが津軽海峡を渡り、北海道の渡島半島の沿岸から、さらに北にも発見されている。
縄文人がどのように津軽海峡を渡ったのか謎である。この謎解きは楽しい。ヒスイはやがて、韓国や中国とも交易されるようになった。
緑色のヒスイは、新潟県の糸魚川(姫川)にしかなかった。佐渡の赤玉(赤鉄鉱を含む石英)、能美の碧玉、出雲のメノウなども珍重された。産地は能登半島や佐渡である。
弥生時代、鉄が朝鮮半島から入ってくる時代になって、交換財として光る玉石が日本海沿岸を西に動き始めたのは自然なことであった。海を越え、半島に渡る1000キロメートルに及ぶ交易路がこの時代に形成された。
だが、一つの船団でずっと航海したのかといえば、そうではない。丸木舟の船団が、狼煙や月の満ち欠け、星座の変化でそれぞれの集落をリレーでつなぐような交易が行なわれた。
この交易は3世紀半ばの古墳時代と呼ばれる時代も続いた。奢侈品で丁寧に分業でつくられた日本の製品は権力者にも歓迎された。
石は玉や首飾りになって、中国や朝鮮半島だけでなく、日本国内(当時、明確な国という概念はない)の豪族の威信財になっていた。古墳時代になっても、墳丘墓から勾玉、管玉、ガラス製小玉が日本列島で副葬品として出土している。全体を考えれば、かなりの量の原石が国内にも流通したと考える。
海が穏やかになる春先から夏場に、材料となる原石を求めて船団は東に向かったか、あるいは原石を積んだ大型船が西に向かったのではないか。近郷近在から、人が集まり、市が開かれ、そこでさばかれたのだろう。
さらに、前の冬に加工、製品となった装飾品も、西から来たバイヤーと商談が行なわれたと考える。商談といっても物々交換の世界である。何と交換されたのだろうか。
今の言葉でいうなら鉄が基軸通貨で、かなり後に銭が普及するまで物々交換、即時決済が基本であったと思われる。そこには米や干魚、毛皮が入ったであろう。
また、すべてではないが、重い石を扱う場合、準構造船(木材を組み合わせて船体を大きくし、波除用の板を立てて乾舷を高くした少し大型の船:以下大型船)が使われたであろう。
暦がない時代、市の開く日はどのように決めたのだろうか。重要なポイントである。星や月など天体の移動で決められたであろうが、気まぐれなのは海の天気である。
市の開催については烽火(ほうか)による伝達、環状列石による石の移動での掲示があったと十分考えられる。東北の縄文遺跡の環状列石は、市を開く時を知らせると同時に、付近を通る船乗りへのイベントの伝言板ではなかったか、そして狼煙が使われたのではないか。
冬には航海はしないが、その間、原石は採取され、切断、粗造り、穿孔、荒磨き、仕上げの工程を経て、完成品になったであろう。石の中の魂を取り出す作業である。玉や首飾りになって、朝鮮半島に渡るまで年単位の歳月が掛かったのではないか。
更新:11月23日 00:05