2026年02月17日 公開
2026年03月18日 更新

『厳島合戦図』(東京大学駒場図書館蔵)
戦国時代、海を拠点に活動する集団として、最も高い知名度と勢力を誇ったのが瀬戸内海の村上水軍だ。能島、来島、因島の三氏からなる彼らは、時に大名と結びつき、時に独自の勢力を保ちながら、海上交通の要衝を支配した。信長をも震え上がらせたその圧倒的な武力と知略とは?本記事では、「日本最大の海賊」と称された村上水軍の歩みと、彼らと深く関わりながら独自の海戦力を築き上げた毛利水軍の歴史をひも解く。
※本稿は、『歴史街道』2025年2月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。
戦国時代に活躍した水軍の中で、最も有名なのは、村上水軍だろう。
村上氏は、芸予諸島の能島(愛媛県今治市)、来島(同)、因島(広島県尾道市)をそれぞれ本拠とする、能島村上氏、来島村上氏、因島村上氏の三氏が突出した活動をみせた。後世、三氏は「三島村上氏」と称される。
実否は不明だが、三島村上氏は同じ一族から分立したとされ、お互いに同族意識を抱いていた。だが、けっして一枚岩ではなく、連携や離反を繰り返している。
宣教師ルイス・フロイスが『日本史』の中で、「日本最大の海賊」と称したことでも知られる能島村上氏の全盛期の当主は、村上武吉である。
村上氏の起源は不明だが、南北朝期(1336~1392)にはこの海域に姿を現わしはじめ、16世紀には、巨大な水軍力を手にしていた。大名たちは彼らを恐れると同時に、その水軍力を欲して接近。村上水軍は、戦国大名の水軍の一翼を担っていく。
村上水軍の代表的な戦いとして、天正4年(1576)7月13日から14日にかけて行なわれた、第一次木津川口合戦があげられる。
織田信長と敵対した毛利氏は、信長による兵糧攻めに苦しむ大坂本願寺への兵糧搬入を決意した。
毛利氏は大坂方面に大船団を送るが、そこには能島村上氏の村上元吉(武吉の嫡男)、武吉の従兄弟・村上景広、来島村上氏の重臣・村上吉継、因島村上氏の当時の当主・村上吉充、吉充の弟・村上亮康らが参陣していた。
『信長公記』によれば、毛利方の船団は700-800艘、織田方が約300艘であった。このとき毛利方の水軍は、「焙烙火矢」を駆使して織田水軍の船を焼き崩し、勝利を収めている。
三島村上氏そろい踏みでの華々しい戦いであったようだが、村上水軍の生業は軍事活動だけではない。
芸予諸島最大の島である大三島に鎮座する大山祇神社(中世では三島神社)には、文安2年(1445)から万治3年(1660)にかけて詠み継がれた法楽連歌(神仏に奉納する連歌)が残されており、戦国時代の連衆には村上水軍の武将の名もみられ、文化的な一面もうかがえるのだ。
やがて、大きな時代の変化が訪れる。天正18年(1590)、関東の小田原北条氏が屈服し、豊臣秀吉による統一政権が成立。
能島村上氏は、毛利氏やその一族である小早川氏の家臣団に編入された。最終的には村上武吉の孫・村上元武が、元和4年(1618)に毛利氏の御船手組頭役に任じられ、毛利氏の御船蔵があった周防国三田尻(山口県防府市)に移り、海上活動を継続していく。
因島村上氏は、早くから毛利氏と結びついており、そのまま家臣団として残った。能島村上氏と同じく三田尻に移り、毛利氏の御船手組番頭となった。
来島村上氏は、天正10年(1582)、信長の毛利攻めの際に、通総が織田方に与し、以後は、織豊政権下の水軍として歩んでいく。
通総の跡を継いだ康親は関ケ原合戦に際し、西軍に加担したため危機に陥る。だが、康親の妻の伯父で、養父でもある福島正則の口利きなどで乗り切り、山間にある豊後国玖珠郡森(大分県玖珠郡)に転封となった。
以後、参勤交代などを除いて、来島村上氏が海を活動の舞台にすることなく、瀬戸内海に別れを告げるように、名乗りを「(来島)村上」から「久留島」と改めた。
安芸毛利氏の水軍編成は、大永3年(1523)に家督を継承した毛利元就によってはじめられた。安芸毛利氏は内陸部の吉田郡山城(広島県安芸高田市)を本拠とするため、当初は水軍を持っていなかったのだ。
天文10年(1541)、元就は従属する大内氏の命を受けて、守護武田氏の安芸国銀山城を攻め落とした。その恩賞として、佐東郡などの武田氏の領国のうち、元就は広島湾に面する佐東川(太田川)河口周辺に領地を与えられた。
武田氏の警固衆だった福井氏、山縣氏らを帰順させた元就は、川ノ内警固衆を編成する。これが、毛利水軍のはじまりともいわれる。
毛利氏は、譜代家臣の児玉就方を草津城(広島市)に入れ、川ノ内警固衆の中心的存在とした。川ノ内警固衆は毛利氏直属の水軍として、児玉就方に率いられることになる。
また元就の三男・隆景は、天文13年(1544)に竹原小早川氏の家督を、天文20年(1551)には沼田小早川氏の家督を継承し、竹原・沼田の2つの小早川氏を統合した。
この小早川氏も、浦々の海賊を従え、水軍を有している。
小早川水軍の主力は、沼田家庶流の乃美宗勝である。宗勝は因島・能島村上氏などと縁戚関係を持ち、村上一族との交渉にあたったり、時には村上諸氏とともに海上軍事にあたったりすることもあったという。
毛利氏の水軍の戦いで、最も世に知られているのは厳島合戦だろう。
弘治元年(1555)、毛利元就が陶晴賢に大勝し、自刃に追い込んだ厳島合戦は、毛利方として来援した村上水軍が勝利に貢献した戦いとして知られているが、実は村上諸氏が参戦したか否かは諸説があり、山内譲氏は、「来島村上氏は参戦した可能性は高い」としている(山内譲『瀬戸内の海賊 村上武吉の戦い』)。この時、来島村上氏との交渉を担ったとされるのが、前述の乃美宗勝である。
弘治3年(1557)に毛利氏が周防大内氏を滅亡させると、大内氏旧臣の沓屋氏などの警固衆も、児玉就方の指揮下に入った。
このようにして編成された毛利水軍は、大友水軍や織田水軍などと戦った。
毛利氏は関ケ原合戦後、領国を長門国・周防国の2カ国に減封となったが、それでも周防国三田尻を拠点に、水軍の編成を継続している。
更新:04月05日 00:05