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信長・秀吉・家康が恐れた紀伊国...一大勢力「雑賀衆」の消滅とその後

小和田哲男(静岡大学名誉教授)

 

秀吉による紀伊攻略

天正10年(1582)6月、織田信長が本能寺の変で討たれたころ、雑賀衆を率いた雑賀孫一は消息不明となっている。出家したともいわれるが、詳しいことはわかっていない。

代わって雑賀衆を掌握したのは、太田城の太田左近であった。

一方、信長亡き後に実権を握った秀吉は、信長がやり残した雑賀攻めに着手する。天正13年(1585)3月、秀吉は6万の軍を率いて和泉国の貝塚に侵攻。雑賀衆・根来衆の軍勢と激戦を繰り広げた。10倍以上の大軍を相手に、紀伊勢は壊滅的打撃を受けた。

さらに秀吉は根来寺、粉河寺に攻撃を加え、そのほとんどを焼き尽くした。敗走した紀伊勢は太田城に逃げ込んで籠城し、最後の決戦に挑む。

太田城の抵抗は激しかった。6万の大軍でも力攻めでは被害が増える一方のため、秀吉は水攻めに作戦を切り替える。周囲10キロメートルの堤防を数日で築き、紀ノ川の水を引いたこの水攻めは、備中高松城攻め、武蔵忍城攻めと並んで「三大水攻め」に数えられる。

一カ月後、「百姓の命は救う」「武装解除する」という和睦案を受け入れ、城主の太田左近以下、指導者層の国人、地侍53名の切腹と引き換えに、太田城は開城。こうして雑賀衆・根来衆は、完全に滅ぼされた。

秀吉はその後、紀伊の神社仏閣をことごとく潰したが、高野山は交渉役・木食応其(上人)の働きにより戦禍を免れた。信長と違い、自身の権力に従順であれば存続を許すというのが秀吉の姿勢であったのだ。その代わり、高野山では紀伊とともに全国に先駆けて刀狩令が発せられている。

紀伊攻めと同じ天正13年、秀吉は関白となって朝廷から豊臣姓を下賜されている。公家・寺家・武家という三権門のトップに立ったことで、寺社勢力も豊臣政権下に組み込む方針へと切り替えていった。

高野山も「公権力」のトップである関白になら、兜を脱ぎやすかった側面もあったと考えられる。

 

反権力の地に紀伊徳川家を...

豊臣秀吉が没し、慶長5年(1600)に関ケ原の合戦で徳川家康の覇権が決まると、紀伊は「武断派大名」として知られる浅野幸長に与えられた。慶長18年(1613)に幸長が病没すると、弟の浅野長晟が跡を継ぐ。すると翌19年には大坂冬の陣、その翌年には夏の陣と、立て続けに大坂城をめぐる戦乱が勃発する。

二度の大坂の陣では、紀伊・九度山に流されていた真田信繁が徳川方を苦しめた。一方、紀伊国内でも土着勢力の大規模な一揆が起こり、長晟は大坂落城後も国内の鎮圧に手を焼いた。

この一揆は、大坂の陣における豊臣方の中心人物であった大野治長が、弟の治胤に命じて煽動させたものといわれている。大坂城から近い、紀伊38万石の大名・浅野長晟の出陣を、豊臣派が防ごうとしたのだ。

だが、これは煽動だけが原因ではなく、紀伊には「反権力」の遺伝子がずっと受け継がれていたとも考えられる。豊臣秀吉に「百姓たちの共和国」を崩壊させられ、さらに家康には大身の大名を置かれ、支配を強化された。

紀伊人たちはその反骨精神から、徳川方が滅ぼそうとしている豊臣方に肩入れしたのではないだろうか。

真田信繁は関ケ原合戦の後に父・昌幸と高野山に流され、ほどなく麓の九度山に移って14年間の幽閉生活を送った。しかし、さほど厳しい監視下にはなく、行動も自由だったという。

豊臣恩顧の将である浅野家の配慮もあったであろうが、「反権力」を貫いた信繁への地元の同情も大きかったことは、想像に難くない。

家康没後の元和5年(1619)、二代将軍・徳川秀忠の代に浅野家が転封されると、家康の十男・徳川頼宣が55万5千石で和歌山藩(のちの紀州藩)主として入封する。徳川御三家である紀伊徳川家の誕生である。のちに紀伊徳川家からは、八代将軍・吉宗、十四代将軍・家茂と二人の将軍が誕生し、紀州藩の地位はさらに高まることになる。

徳川幕府はなぜ、頼宣を和歌山に配置し、徳川将軍家に次ぐ家格の御三家としたのか。理由は諸説あるが、紀伊が豊臣政権の本拠地・大坂に近いこと、そして紀伊そのものへの強い警戒心があったと考えられる。畿内安定の要として、徳川幕府は紀伊の支配をとりわけ重視したのだ。

幼少期を家康の元で過ごした頼宣は、藩主となるとすぐに、和歌の浦にて紀州東照宮の建立に着手した。古くから神仏の影響を色濃く受け継ぐ地域であったからこそ、家康の神格化を急いだともいえるのかもしれない。

 

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