源氏追討の情報がもたらされる中、義明の死後、三浦氏の惣領として一族をけん引したのが義明の子・義澄である。以仁王の乱の後、伊豆の配所を訪れて頼朝と挙兵の相談をするなど、もっとも信頼された御家人の一人だった。
一方、石橋山の戦いで頼朝に敵対した伊東祐親は妻の父であり、伊東氏との絆も強かった。祐親が捕らえられた際、義澄が頼朝に助命を嘆願して許されたのも信頼の厚さゆえだろう(祐親は自害)。
一ノ谷の戦い後の西国遠征では、源範頼の命で周防に残り、山陽道の守備と京との連絡役という地味なミッションをこなした。そのかいあって、壇ノ浦の戦いでは「すでに門司関を見ている」との理由から義経に先登(先陣)を命じられる。
九州に進出した源氏軍の背後を守る一方、三浦水軍の機動力を生かして壇ノ浦周辺の調査を行なってきたことが評価されたのだろう。
その後も、幕府草創の功臣として重んじられ、頼朝が征夷大将軍に任じられた際は、比企能員を従えて鶴岡八幡宮に赴き、勅使から任命書を受け取り頼朝に進上した。頼朝がこの大役を義澄に授けたのは、自身に命を捧げた義明の恩に報いるためであったと『吾妻鏡』は記す。
頼朝の死後は、頼家を補佐する13人の宿老の一人に名を連ねたが翌年の正治2年(1200)に死去。華々しい人生ではなかったが、三浦氏の基礎を固めた功績はもっと評価されてしかるべきだろう。
佐原義連は三浦義明の子で、衣笠城の東の佐原城を拠点とした。通称は三浦十郎。
治承5年(1181)4月、弓矢に優れ信頼できる者として、北条義時や梶原景季らとともに、頼朝寝所の護衛役11人の一人に選ばれた。同年6月には、酒宴の席でいさかいを起こした叔父の岡崎義実と上総広常の双方を叱りつけた。これにより頼朝から一層の信頼を寄せられたと『吾妻鏡』は記す。
源平合戦における義連の最大の見せ場は一ノ谷の戦いだ。義経が平家の陣に奇襲をしかけた「鵯越の逆落とし」の場面。真っ先に駆け下りる義経に従い、御家人たちは次々と騎馬で岩場を駆け下りたが、途中の平坦地で行き詰まってしまう。
御家人たちが途方に暮れる中、進み出たのが義連だった。「この程度の崖は三浦の馬場も同然だ」といって真っ先に駆け下り、兵たちを鼓舞したという。
三浦一族の中で、もっとも発展したのは義連の系統であった。孫・盛時は宝治合戦で滅びた宗家に代わって「三浦介」の名跡を継承。佐原の名はもう一人の孫・光盛が継ぎ、子孫は会津に移住して蘆名氏となり近世初頭まで存続した。
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和田義盛(よしもり/1147~1213)...弓馬の術に精通した初代侍所別当 >
更新:11月22日 00:05