8月15日、16日と、駐蒙軍の抵抗により、進撃するソ連軍は苦戦を強いられた。17日にはソ連軍の飛行機から「日本はすでに無条件降伏している。直ちに降伏せよ。降伏しなければ、指揮官は戦争犯罪人として死刑に処する」と書かれたビラが投下された。
だが根本は「ソ連は私を戦犯にするとのことだが、私が戦死したらもはや戦犯にしようとしても不可能ではないか」と一蹴し、もしソ連軍の軍使を追い返すことができなければ「私自身が戦車に体当たりして死ぬだけのことだ」と強い覚悟を示した。
根本は8月19日、北支那方面軍司令官も兼任となったが、20日には上級司令部である支那派遣軍総司令部から、速やかに戦闘を停止して武器をソ連軍に引き渡すように厳命する電文が来た。
それに対して、根本はソ連軍は延安の中国共産党軍と通じているので、彼らを相手に武装解除したら、保護すべき日本人の生命と財産を守ることができないと拒絶した。
若い頃から中国駐在経験があり、参謀本部でも支那班で過ごした根本は親中派で、敵である国民政府と深い交流があった。蔣介石総統とも親しく交際し、蒙疆で対峙する傅作義将軍とは信頼関係で結ばれていた。
中国で日本軍が戦っているのは国民政府軍であり、降伏する相手も国民政府であるべきだというのが根本の強い思いだった。
根本は傅作義将軍に宛てて、自分が死んだ後に在留邦人と部下を無事、日本へ帰してくれるよう依頼する遺書を認め、軍服の内ポケットにしのばせていた。
根本の覚悟に呼応するように、満蒙軍は必死にソ連軍の侵攻を食い止めた。
丸一陣地でも強力なソ連軍の装甲車両に対して、ソ連侵攻を予測して準備していた戦車壕で進撃を阻止し、夜襲による白兵戦でも奮闘して、敵襲を押し戻した。
そして21日、張家口の日本人居留民が天津・北京方面に退去したとの報を受け、守備隊は撤退を開始した。結局、守備隊に少なくない犠牲者を出しながらも、駐蒙軍は4万人の在留邦人を守り抜くことに成功した。
その後、根本は最高責任者として在留邦人の日本への帰還のみならず、北支那方面の将兵35万人の復員を終わらせ、終戦からちょうど1年後の昭和21年(1946)8月に最後の船で帰国した。
それから3年後、国共内戦で追い詰められた国民政府軍を援けるために根本は台湾に向かい、金門島で見事に中共軍を撃退したが、それはまた別の話である。
更新:11月22日 00:05