2012年03月08日 公開
2022年08月25日 更新
昭和12年(1937)、樋口は「関東軍の情報部長」ともいうべきハルビン特務機関長になります。そしてこの地で、ユダヤ人難民救出事件――いわゆる「オトポール事件」に直面することになるのです。
当時、ナチスの迫害が吹き荒れる欧州からシベリア鉄道経由で逃れてきたユダヤ人難民の満洲への入国を、ナチス・ドイツの顔色を窺(うかが)う日本の外務省への遠慮から満洲国が渋り、満ソ国境の町オトポールで多くのユダヤ人が立ち往生していました。その窮状をハルビンの極東ユダヤ人協会から訴えられた樋口は、満洲国に働きかけて入国を認めさせ、彼らの脱出ルートを切り開いたのです。これは有名な杉原千畝(すぎはらちうね)の「命のビザ」の話よりも、さらに2年ほど前のことです。また樋口は、ハルビンのユダヤ人たちが開いたこの事件への謝恩大会で、「今日、世界の一隅においてポグロム(ユダヤ人虐待)が行なわれ、ユダヤに対する追及または追放を見つつあることは、人道主義の名において、また人類の一人として私は衷心悲しむ。ユダヤ追放の前に彼らに土地すなわち祖国を与えよ」と演説しました。
これらは、当時の状況では、決して容易なことではありません。当初、満洲国や外務省が入国を拒んだのは、ナチス・ドイツと防共協定を結ぶ関係にあったことを慮(おもんばか)ってのことで、現に、ナチス・ドイツは樋口を名指しして日本に公式に抗議していますし、陛軍内部でも樋口の処分論が高まります。
また、もう1つ忘れてはならないのは、当時日本でも「ユダヤ陰謀論」が根強く唱えられており、陸軍内部にも四王天延孝(しおうてんのぶたか)将軍などをはじめとして、それに加担する一派が存在したことです。これは事実として誤っていただけでなく、日本の進路にとって大いに問題のある議論でもありました。というのも当時、日本のマスコミ界ではとくに「ユダヤ金融資本の陰謀」を書き立てる傾向が強く、それがまた、「反英米」感情の火に油を注ぐ結果となっていったからです。さらに、そもそもベルサイユ会議(1919年)以降、「人種平等」を国是のように唱えていた日本が、本来ならば最も唾棄(だき)すべき「人種差別主義者」ナチス・ドイツと手を結ぶ下地にもなってしまったのです。
このような状況下で、「日本も満洲もドイツの属国ではないのだから、ドイツの(ユダヤ人差別という)非人道的な国策に協力すべき理由はない」と明言した樋口の勇気ある姿は、その人物の大きさと共に、日本人としての誇りを感じさせてくれます。
ハルビン特務機関長の任を終えた樋口は、陸軍のインテリジェンスを手掛ける参謀本部第二部長や、金沢の第九師団長を務めた後、昭和17年(1942)に札幌の北部軍(後に北方軍、第五方面軍)司令官に赴任します。これは決して軍の中枢とはいえないポストですが、この軍司令官時代に、樋口はアリューシャン列島のアッツ島・キスカ島の戦い(昭和18年)と、占守島の戦い(昭和20年)という重要な局面に立ち向かうことになるのです。
それぞれの戦いの詳細は別稿に譲り、ここではその意義を述べたいと思います。
アッツ島・キスカ島は、昭和17年6月に、ミッドウェー作戦の陽動作戦として、海軍の要請で占領したものです。しかし、海軍はミッドウェー海戦で大敗。そして翌年5月には、アリューシャン列島でも米軍の本格的な反撃に直面します。樋口は、アッツ・キスカからは早急に撤退させるか、そうでなければ強力な増援部隊を送るように大本営に強く働きかけますが、この申し出を、海軍が「燃料不足」などの理由から蹴るのです。
当時、海軍大佐として軍令部作戦課におられた高松宮宣仁親王も、昭和18年5月22日の日記で、「熟田(引用者註 : アッツ島の和名)ノ守備(隊)ヲ犬死サセル必要ハアルマイニト思フ」と嘆いておられます。このお言葉は、重く響きます。これは戦後あまり指摘されませんが、海軍は当初、陸軍に派兵を要請しながら、結果的に見殺しにしたのです。ミッドウェーですっかり自信をなくした海軍の上層部は、当時まだ十分な(空母)機動部隊を有していたにもかかわらず、むやみに損害を恐れてアッツ救援のための出撃を拒否したというのが真相です。
大本営からアッツ島守備隊への玉砕命令が下ったとき、樋口は号泣したといわれます。もちろん、現場の指揮官として2千6百名の部下を玉砕させることへの強烈な自責の念であったでしょう。しかしそれだけでなく、海軍の不条理さによって増援部隊を送れないことへの怒りの涙、そしてそれを撥ね返せない陸軍参謀本部の不甲斐なさへの悔し涙でもあったのではないでしょうか。
樋口はそこで、「アッツ島の将兵を見殺しにするのならば、せめてキスカ島からの撤収作戦には海軍が無条件の協力を約束せよ」と大本営に頑強に迫ります。キスカ島の将兵6千の約半数は海軍陸戦隊でしたから、海軍も「身内可愛さ」から必ず覚悟を固めるはず、という読みもあったからです。この樋口の強硬な主張があったからこそ、「世界戦史上の奇跡」ともいわれるキスカ撤退作戦が実現したのです。
そしてもう1つ、樋口が第五方面軍司令官として最後に下した決断が、「北海道の占領」をめざし終戦後にも国際法を破って侵攻を続けるソ連軍に対する、断乎たる反撃でした。
そもそも日本は終戦時、「整然たる降伏」にこだわりすぎました。停戦後に一番危険なことは、丸腰になった味方が殲滅され虐待されることであり、武装解除した後に行なわれる敵の不法な行為によって、決定的に国益が侵されてしまうことです。簡単に武装解除せずギリギリまで条件交渉すべし、というのが世界の常識なのです。
にもかかわらず、大本営は8月16日に戦闘行為の即時停止を命令、そして「8月18日午後4時以降は、自衛目的の戦闘行動も全て停止」と命じます。「自衛目的の戦闘も停止」など、本来ありえないことです。自衛権は、いつ、いかなる時でも許される「人類普遍の自然権」だからです。戦後日本の「倒錯と自虐の精神」の萌芽が、すでにこの時点で現われているかのようです。
それゆえ、広い世界的視野に基づく合理的思考に立脚してその誤りを排し、正面から反撃を加えてソ連軍撃退をやってのけた樋口は、やはり「独りよがりの世界観」から一歩抜きん出た存在だったといえます。日本を「分断国家の悲劇」から救った樋口のこの判断に、すべての日本人は感謝すべきでしょう。
更新:12月04日 00:05