終戦の2日後にあたる昭和20年(1945)8月17日、まぎれもない日本の領土で新たな戦いが始まったことをご存じでしょうか。千島列島の北東端の占守〈しゅむしゅ〉島に不法侵攻してきたソ連軍と、日本軍との戦いです。
「日本の歴史家は、あの戦争の負け戦〈いくさ〉ばかりを伝えている。しかし、中には占守島の戦いのような勝ち戦もあったし、だからこそ今の日本の秩序や形が守られている。負け戦を語ることも大事だが、その一方で、重要な勝ち戦があったことも、しっかりと語り継いでほしい…」
占守島をはじめ北方守備を担当する第五方面軍の司令官だった樋口季一郎は、戦後、孫の隆一氏にそう語ったといいます。
かつてハルピンで多数のユダヤ難民の命を救い、また海軍と協力して昭和18年(1943)のキスカ島撤退を成功させた樋口は、人道を重んじ、自分の功を他人に語るような人物では決してありません。そんな樋口が重要な勝ち戦と語った占守島の戦いとは、どのようなものだったのでしょうか。
昭和20年8月8日、ソ連は中立条約を一方的に破棄すると、翌9日、満洲に雪崩れ込みました。そこで行なわれたのは、一般市民に対する略奪、暴行、殺戮です。
11日には樺太にも侵攻、第五方面軍は各師団に対ソ戦準備を命じますが、15日、日本はポツダム宣言を受諾し降伏。日本軍は武器を置きました。
ところがソ連軍は攻撃の手をゆるめず、16日以降、樺太でも満洲と同様の非道を繰り返し、17日には太平炭鉱病院の看護婦たちが、逃げ場を失い集団自決する悲劇も起こりました。
さらに17日深夜、千島列島占守島にも侵攻を始めたのです。降伏した日本軍の抵抗はないと見たスターリンは、火事場泥棒的に南下して、北海道の領有をねらっていたのでした。
17日深夜、ソ連軍侵攻の報せを受けた樋口季一郎は、即座に反撃を決断します。日本軍は無条件降伏したとはいえ、自衛のための戦いまで放棄したわけではありませんでした。
樋口は命じます。
「宿敵ソ連軍、我に向かって立つ。怒髪天を衝く」
「断乎、反撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ」
ソ連軍が突如、上陸を始めた占守島の竹田浜
(写真提供:相原秀起氏)
更新:11月21日 00:05