一方、占守島では終戦となり、守備隊の将兵は慰労会を開いて、故郷の家族との再会に思いをはせていました。占守島には通称「士魂部隊」と呼ばれた戦車第十一連隊の精鋭が駐屯していましたが、もはや戦車も用済みとなり、海中に処分する話も進んでいました。そこへ深夜、敵襲の報が、砲撃音とともにもたらされたのです。
日付が変わり18日午前2時30分、戦車第十一連隊に出撃命令が出ると、池田末男連隊長は即座に、索敵を命じます。敵は戦車、あるいは対戦車砲をもって上陸しているのか。占守島の要所である四嶺山〈しれいざん〉にまで敵は及んでいるのかを確認するためでした。
その結果、敵に戦車はないものの、対戦車砲を備えていること、すでに四嶺山近くにまで侵攻していることをつかみます。猶予はなしと見た池田連隊長は、準備のできた車輌から出撃することにし、自ら戦車に乗り込むと、砲塔から上半身を出して指揮官旗を振りました。
「前進っ」
池田率いる戦車隊が深い霧に包まれた四嶺山付近に到着したのは、午前5時。準備が間に合った車輌は20輌ほどで、連隊全体の3分の1に満たない数でした。しかし、敵はすでに目前にあり、敵に四嶺山を奪われて重砲を置かれたら、日本軍は息の根を止められます。
つい数時間前まで、故郷に帰ることを喜んでいた部下たちの笑顔を知りながら、池田は命令を下さねばなりませんでした。
「われわれは家郷に帰る日を胸に、ひたすら終戦業務に努めてきた。しかし、ことここに到った。もはや降魔の剣をふるうしかない。そこで皆にあえて問う。皆はいま、赤穂浪士となって、恥を忍んでも将来仇を報じることを選ぶか。それとも白虎隊となり、われわれの命をもって民族の防波堤になるか。赤穂浪士を選ぶ者は一歩前に出よ。白虎隊たらんとする者は手をあげよ」
「おう」
悲壮な面持ちで訓示した池田に対し、全員が力強く手をあげたのです。
「皆、ありがとう」。池田連隊長の目が、感謝の涙でくもりました。
「連隊はこれより、全軍をあげて敵を殲滅せんとす。続けっ、前進っ」
池田が日章旗を振ると、十一という数字が士と読めることから「士魂部隊」と呼ばれた精鋭たちの戦車がうなりをあげて、侵攻する敵の群れの中に突入していったのです。
彼らをはじめとする占守島守備隊の奮闘は、ソ連軍に大打撃を与え、敵を海際に追い詰めて、23日の停戦に至り、ソ連軍は北海道侵攻を諦めます。ソ連軍の戦死者は約3,000人。しかし、日本軍も池田連隊長をはじめとする600人が還りませんでした。
終戦後に日本を分断から救うべく、命を捨てて戦った人々がいたことを、私たちは決して忘れてはならないでしょう。
更新:11月22日 00:05