2021年07月29日 公開
中国は今も昔も豊かな国です。下の図は歴史上の世界GDPシェアの統計データです。
1820年では、中国のGDPシェアがトップで、ヨーロッパ各国を合わせても中国には及ばない状態です。それ以前の古代や中世に関しても、中国はGDPシェアでヨーロッパを大きく引き離しています。
しかし、この後、急激な衰退に向かっています。ヨーロッパが近代化を遂げ、覇権を握る時代に入ったからです。
この大逆転を経済史家のケネス・ポメランツは「大分岐(The great divergence)」と呼びました。ポメランツは、産業構造の観点からも、資本蓄積の観点からも、「ヨーロッパは1800年以前に決定的に優位にあったわけではない」と述べています。
中国は、ヨーロッパのような「資本の蓄積」が見られないなどと説明されますが、資本・資金の歴史的な豊かさは、上図のGDPシェアが示す通りです。
17世紀の清王朝の時代は、金融業の規制も緩く、大都市には資本が充分に蓄積されていました。農村でも豪農や豪商らが多くいて、地方の特産物を扱い、大きな利益を上げていました。ポメランツは、当時の中国における豊富な資本の蓄積を、市場メカニズムの観点から立証しています。
経済史家ジョヴァンニ・アリギは著書『北京のアダム・スミス』で、18世紀の中国に、同時期のヨーロッパより発達した市場経済があったと述べています。アダム・スミスが唱えた自由主義経済のマーケットが、乾隆帝の時代に、既に達成されていたと主張しています。
しかし、そのような「資本の蓄積」が中国では、近代化(産業化・機械化)には振り向けられませんでした。
中国は物資も資金も豊富、人口は巨大で、労働力がタダ同然でした。そのため、生産コストを削減しなければならないという考え方がそもそもなく、莫大な投資金や時間のかかる機械化へのインセンティブが働かなかったのです。
19世紀に、イギリスが中国市場に進出した際、中国の人口はおおよそ4億2000万人でした。イギリスの人口がおおよそ1000万人であったことと比べれば、中国の人口が桁外れに多いことが分かります。
18世紀に君臨した乾隆帝は、イギリスから交易を求めてやってきた使節に、「お前たちの国には貧弱なモノしかない。我々が欲するモノは何一つない」と言って、追い返しています。
因みに、このイギリスの使節団が持ってきたモノとは、ゼンマイ式時計、オルゴール、小型銃、機械人形、機関車模型など、機械化を国策としているイギリス独自の技術力を示すモノでした。乾隆帝はこれらを見て、「浅はかな工作人の思い付き」と笑ったようです。
イギリスの科学史家ジョゼフ・ニーダムは大著『中国の科学と文明』の中で、中国人が発明した火薬を、中国人自身が銃や大砲として実用化できなかったのは、技術革新という新しいものに対する、潜在的な不信感があったからだと述べています。因習や伝統に固執しやすい中国人にとって、新しいものは奇異なもの、伝統基盤を破壊する忌避すべきものと映ったのです。
19世紀、近代化に遅れた中国は、イギリスをはじめとする列強によって、分割支配され、半植民地化されます。
1949年、中華人民共和国が成立しますが、共産主義政策の失敗が続き、なかなか停滞から抜け出すことはできませんでした。1978年から開始された鄧小平らの改革開放により、市場経済への移行が図られ、ようやく、中国は本来の国力を発揮しはじめて躍進し、今日に至るのです。
更新:11月22日 00:05