2021年01月03日 公開
2021年08月02日 更新
ペルシャ帝国の都・ペルセポリスの遺跡
昨今のアメリカと中国との"貿易戦争"──。それは経済的な問題にとどまらない、覇権をかけた政治的生き残りの決戦である。しかしこうした貿易を巡る争いは歴史上、目新しいことではない。貿易戦争は次の時代を生み出す世界史の原動力となってきたのだ。
【宇山卓栄(著述家)】
昭和50年(1975)、大阪府生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。代々木ゼミナール世界史科講師を務め、在に至る。テレビ、ラジオ、雑誌など各メディアで、時事問題を歴史の視点でわかりやすく解説している。
近年、アメリカの対中貿易赤字は突出して増大しています。中国が経済成長していくことができているのは、アメリカという巨大市場に輸出攻勢をかけて、多額の外貨を稼いでいることが大きな要因の一つです。
中国は外貨準備を元手にして、人民元を大量発行し、資金循環を生んでいきます。さらに、経済成長を背景に、潤沢な予算を軍事費に充てることができます。
たとえ、米中が貿易交渉で部分的に妥協合意したとしても、大きな流れとして、際限なく強大化する中国を、アメリカが放置することはできません。
歴史上、貿易は世界の富を吸い上げる手段として、覇権獲得のための主要戦略と位置付けられてきました。そのため覇権抗争は、交易や貿易上の対立を直接的な原因とします。今日の米中の貿易戦争がそうであるように、歴史における覇権争いも同じでした。
紀元前6世紀、アケメネス朝ペルシアは全オリエントを統一し、強大な力を誇りました。ペルシアは金貨を鋳造し、領域内に流通させました。
ペルシアの貨幣は極めて良質で、国王ダレイオス一世が鋳造させたダレイオス金貨は、不純物がわずか3パーセント以下でした。ギリシアの歴史家ヘロドトスは著書『歴史』の中で、「ダレイオスはできる限り純粋に精錬した金で貨幣を鋳造させた」と記しています。
アケメネス朝ペルシアにおいて、金と銀の交換比率GSR(gold silver ratio)は1:13.3と定められました。
万有引力の発見で知られる、18世紀のイギリスの物理学者アイザック・ニュートンは造幣局長も務め、当時の激しいインフレの中、金貨を安定させる政策を推進します。ニュートンは1717年にGSRを1:15.21と打ち出しました。
この数値はいわゆる「ニュートン比価」と呼ばれるもので、その後のイギリスをはじめとする金本位制の国家のGSRの基準となります。古代のペルシアのGSRも、「ニュートン比価」から大きく外れたものではありませんでした。
同じ頃、ペルシアの西方で、エーゲ海交易圏の確立とともに、ギリシア各地でポリスと呼ばれる都市社会が興隆します。ミレトス、アテネ、スパルタ、テーベなどの都市です。
ギリシアのGSRは、ペルシアとほぼ同じ水準で1:14でした。ところが、アテネで紀元前6世紀の半ば、ラウレイオン(ラウリウム)銀山の組織的な採掘がはじまり、独自の通貨ドラクマが鋳造されます。ドラクマはギリシア語で「摑む」という意味を持ちます。
銀が大量に生産され、ギリシアの銀価格が値下がりし、急激な「金高=銀安」の状況が発生しました。この機に乗じて、ペルシア商人はギリシアで、金を割安な銀と交換し、為替差益を稼ぎました。
そのため、紀元前6世紀末以降、ペルシアのダレイオス金貨が大量にギリシアへ流出しました。事実上の金本位制をとるペルシアにとって、看過できない深刻な事態でした。
ペルシアの政権内部では、金の流出を食い止めるためにも、ギリシアを征伐するべきとの声が強まり、ペルシア戦争が始まります。紀元前480年、アテネ沖のサラミスの海戦で、海戦が得意なギリシアにペルシアは敗北します。
以後、ペルシアの覇権は急激に失われ、紀元前4世紀後半には、ギリシア勢力を率いたアレクサンドロス大王がペルシアに攻め入り、これを滅ぼしました。
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更新:11月22日 00:05