2021年01月03日 公開
2021年08月02日 更新
18世紀に君臨した中国・清王朝の乾隆帝は、イギリスから交易を求めてやってきた使節に、「お前たちの国には貧弱なモノしかない。我々が欲するモノは何一つない」と言って、追い返しました。
イギリスの使節団が持ってきたモノとは、ゼンマイ式時計、オルゴール、小型銃、機械人形、機関車模型など、機械化を国策としているイギリス独自の技術力を示すモノでした。乾隆帝はこれらのモノを見て、「浅はかな工作人の思い付き」と笑ったようです。
イギリスの科学史家ジョゼフ・ニーダムは著書『中国の科学と文明』の中で、「中国人が発明した火薬を中国人自身が銃や大砲として実用化できなかったのは、技術革新という新規なものに対する潜在的な不信感があったからだ」と述べています。
儒教的な因習や伝統に固執する中国人にとって、新規なものは伝統を破壊する忌避すべきものと映ったのです。
同時代、アダム・スミスは中国を産業資本が欠如した停滞社会で、自由貿易を拒否する閉塞社会であると批判しています。中国では、茶、砂糖、たばこ、桑(蚕の飼料)などの商品作物の生産が盛んで、大きな利益を上げていました。肥沃な水田地帯では、大規模な穀物栽培も盛んでした。
中国の農業の生産性、利益性は高く、土地の痩せたイギリスとは違い、敢えて工業化を図らなければならない必然性がありませんでした。中国人は農業社会に固執していたというよりはむしろ、彼らにとって、農業経営で収益を確保することが、合理的で自然な選択であったのです。
中国は乾隆帝の死後、イギリスとの貿易に応じます。イギリスは中国から主に、茶を輸入し、銀を支払いに充てていたため、銀の流出が止まらず、貿易赤字が累積する一方でした。
イギリスの産業製品は一向に売れません。乾隆帝が「我々が欲するモノは何一つない」と言ったように、イギリス製品は中国人にとって、ほとんど必要とされず、イギリスは銀の支払いに応じるしかありませんでした。
イギリスはこの貿易不均衡を是正するために、銀の代わりに、アヘンを中国に輸出しました。アヘンを排除しようとした中国に対し、イギリスは1840年、アヘン戦争を仕掛けます。
イギリスはアヘン戦争で勝利し、清王朝の関税自主権を奪い、巨大な中国市場に自国の綿製品を輸出し、一儲けしようという魂胆を持っていました。
ところが、イギリスの綿製品は中国では売れませんでした。左上表のように、アヘン戦争後、中国への綿製品輸出はあまり増えず、茶の輸入が増えるばかりでした。
なぜ、イギリスの目論見は外れたのでしょうか。カール・マルクスはイギリスの綿製品輸出の不調を、「イギリス資本に対する中国人の民族的抵抗」と説明しました。しかし、これは間違った解釈でした。
機械で大量生産したイギリス製の綿製品はたしかに廉価でした。しかし、中国人が手で織った綿製品はもっと廉価だったのです。
中国は巨大な人口を有しているために、労働力は極めて豊富でした。ヨーロッパと比べれば労働コストはタダ同然で、結果的に機械よりも安く織ることができたのです。議会によって派遣されたミッチェル調査団がこのことを1852年の報告書で述べています。
中国貿易はイギリスにとって、赤字を拡大させるものでしかありませんでした。中国へ貿易攻勢ができないので、イギリスは武力で脅して、中国を半植民地化して、富を強奪するしかありませんでした。
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更新:11月22日 00:05