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19世紀で人口“4億人超”…資源にあふれた中国が「近代化に遅れた」理由

2021年07月29日 公開

宇山卓栄(著作家)

宇山卓栄

どんな国においても、分岐点が存在する。いかにしてその国は出来て、発展したのか。今回は米中対立でその動向が注目される中国を取り上げ、「国家台頭」と「近代化」の時について解説しよう。

※本稿は、『歴史街道』2021年8月号の特集「日本史と世界史の転換点」から一部抜粋・編集したものです。

 

中国王朝が興亡を繰り返した理由

紀元2世紀前後、インドにおいて、中国はサンスクリット語(梵語)で「チーナ・スターナChina staana(「チーナ人の土地」という意味)」と呼ばれていました。「チーナ」は初代統一王朝の秦を表わしており、これがヨーロッパにも伝わり、英語の「チャイナChina」やフランス語の「シーヌChine」になります。

6世紀末の隋王朝時代、インドから伝来した経典の中に、「チーナ」の呼び名があり、当時の訳経僧がこれに「支那」という漢字を当て、一般化しました。

「チーナ」つまり「秦」が中国国家のはじまりです。紀元前221年、秦の始皇帝が中国を統一します。「皇帝」の号を創始し、文字・貨幣・度量衡などの統一を行ない、名実ともに「中国(チーナ)」が誕生するのです。

紀元前3世紀においては、中国だけでなく、ヨーロッパ、中東、インドでも、その後の国家の原形をなす強大な統一国家が誕生しています。

ローマは紀元前272年にイタリア半島を統一し、カルタゴと地中海の覇権を巡り争っていました(ポエニ戦争)。中東では紀元前247年、イラン人国家のパルティア王国が成立し、紀元前268年頃のインドではマウルヤ朝のアショーカ王が君臨するなど、「世界史の胎動」とも言うべき大きな分岐を迎えた時代でした。

この時代、世界的に気候が安定し、食糧増産とともに人口が増大します。景気が向上することで、世界各地を繫ぐ交易が活発化し、大きな富がもたらされました。秦は中国の西の端に位置し、西方との交易でもたらされた富を背景に発展していきます。

秦は全国に無数にあった集落を統合して県を組織し、「県令」という県の長官を中央から派遣して統治させました。そして、中央には官僚機構を整備し、中国特有の律令制の礎を築きました。この律令制は歴代王朝に引き継がれていきます。

しかし秦は急速に集権化を進めたため、農民の反乱や地方豪族の反乱が起こり、紀元前206年に漢王朝へと交替します。

秦も漢も、黄河や長江の流域を支配し、大規模な灌漑農業を推進するために、水の管理を組織的に行ないました。その際、組織を運営する精緻な官僚制が必要とされたのです。中国王朝は、水を支配することによって発展した集権国家とも言えます。

領土を拡げ、土地税や人頭税を徴収し、国家財政に充当しました。領土が拡大すればする程、財政収入は増幅するという仕組みの中で膨張的な循環を続け、その領域を専制的に支配したのです。

領土膨張の過程で、異民族との抗争が避けられず、秦や漢はモンゴルの遊牧騎馬民族(匈奴)と戦います。野蛮な異民族と戦うという大義名分のもと、王朝は専制支配を正当化しました。

広大な領域を統治することには常に困難が伴い、地方豪族や異民族の反乱にあい、王朝は必然的に興亡を繰り返すのです。

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