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天照大神は、本当は「男神」だった?…天皇家の最高神をすり替えた『日本書記』

2021年06月04日 公開
2022年06月23日 更新

関裕二(歴史作家)

 

『日本書紀』が天照大神を女神にした?

伊勢神宮の神、天皇家の最高神は本来男性であったのに女性にすり替えられてしまった。

ならば、いつ頃、何を目的に、伊勢の神は女神になったのだろう。

西暦720年に編纂された『日本書紀』は、大日孁貴(大日巫女)であったものを女神の太陽神・天照大神にすり替えている。だから、それより早く、「天照大神を女神にしよう」と、誰かが目論んでいたはずだ。

草壁皇子は皇太子だったが、即位することなく亡くなった。持統3年(689)4月のことだ。このあと、天武の皇子が数多残っていたにもかかわらず、鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)が玉座をかすめ取り、即位した。これが持統天皇だ。

孫の軽皇子(かるのみこ)の即位を実現するには、そうするほか手はなかったのだろう。しかし、壬申の乱で、「天智系vs天武」は激突し、天武天皇が勝利したのだから、天武崩御後天智の娘が即位する大義名分は、乏とぼしかったはずなのだ。

『扶桑略記』は、この時持統天皇が、藤原不比等の私邸を宮にしていたと記録する。これは、多くの皇族や貴族たちが、持統の即位を支持していなかったことを暗示している。

草壁皇子が亡くなり、持統が玉座を狙い始めたその時、天照大神が、「天照らす 日女の命」と呼ばれていた事実は、無視できない。持統は藁をも摑む思いで、「女帝誕生の正当性」を掲げようとしたのではなかったか。

女神・天照大神は、持統天皇即位の正当性だけではなく、もうひとつ大きな意味を持っている。

神話の中で、天照大神は当初子供の天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)を葦原中国の支配者にしようと考えたが、天忍穂耳尊と高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の娘の間に天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)が生まれたため、急遽この孫を地上に送り込んだ。

ここに登場する高皇産霊尊のモデルこそ、藤原不比等ではないかとする説がある。すなわち、天照大神を持統、天忍穂耳尊を草壁皇子、天津彦彦火瓊瓊杵尊を軽皇子(文武天皇)や首皇子(聖武天皇)に当てはめれば、七世紀後半の王家の系譜と、うまく重なってきてしまうのだ。

そして一番大きな問題は、神話の中で、王家が天照大神と高皇産霊尊の力で始まったこと、しかもこの神話は、持統と藤原不比等のコンビの活躍をなぞっていること、すなわち、「持統=女帝から始まる王家」の正統性を述べていることになる。

持統から始まる王家は、天武天皇の王家ではない。天智系の女王から始まる王家こそ、持統と藤原不比等が目論んだ、新政権の意味づけであろう。

持統天皇の崩御の直後に贈られた和風諡号(しごう)は、「大倭根子天之広野日女尊(おおやまとねこあめのひろのひめのみこと)」だったが、『日本書紀』編纂時には「高天原広野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)」と、天照大神のイメージに変身している。

つまり、天武天皇崩御から『日本書紀』編纂までの時期に、「女神・天照大神」が誕生していた意味は、決して小さくない。

 

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