2020年12月18日 公開
2021年05月07日 更新
「令和」という新時代を迎え、歴代天皇の事績をふりかえります。今回は花山天皇をお届けします。
※各天皇の年齢等については数え年で計算して記しています。
※即位年、在位年数などについては、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。
皇紀1628年=安和元年(968年)10月26日、冷泉天皇の第一皇子として誕生された師貞親王で、母は藤原伊尹(これただ)の娘で女御の懐子(かいし)である。なお、女御は、天皇の後宮の位の一つで、皇后・中宮に次ぐ。天皇の寝所に侍した。この時代、皇后は女御から昇進した。藤原伊尹は藤原師輔の長男で後に摂政太政大臣となる。
皇紀1629年=安和2年(969年)8月13日、生後約10ヶ月で立太子された。親王の外祖父である伊尹が早く皇嗣を決めておこうとしたのか、再び幼児の立太子となった。翌安和3年5月に先帝・円融天皇の摂政に就いた伊尹が皇紀1632年=天禄3年11月1日、在職2年半で死去(49歳)したので、結果的には伊尹の願いは叶ったともいえる。
皇紀1644年=永観2年(984年)8月27日、円融天皇の譲位を受け、10月10日、17歳で即位される。
位に当たっては先帝・円融天皇の第一皇子・懐仁親王(一条天皇)が5歳で立太子される。
関白には先代に引き続いて藤原実頼の次男の頼忠が就いたが、実権を持ったのは、天皇の外舅で藤原伊尹の五男・権中納言・藤原義懐と乳母子(乳母の子)で左中弁の藤原惟成(32歳)であった。
即位された時にはすでに外祖父の伊尹は死去しており、花山天皇にとっては後ろ盾となる有力な外戚がなかった。
皇紀1645年=永観3年(985年)4月27日、元号が寛和に改元され、寛和元年11月21日、大嘗祭が催行される。
寛和元年7月18日、ご懐妊中の女御・藤原忯子(しし・17歳)が薨去される。忯子は藤原師輔の九男・藤原為光の娘である。
皇太子である懐仁親王(一条天皇)の外祖父であった右大臣・藤原兼家は、外孫・皇太子の即位と自らの摂政就任を早めようと、花山天皇の退位・出家を画策する。蔵人(天皇の秘書的役割)として天皇に仕えていた三男の藤原道兼が父・兼家の意を受け、女御・藤原忯子の死で悲しむ天皇に、自分も一緒に出家するからと出家を勧める。
皇紀1646年=寛和2年(986年)6月23日、在位わずか2年弱にして19歳で退位され出家して仏門に入られて法皇となられ、すべて兼家の思惑通りとなった。皇統譜では在位3年とある。
6月24日、藤原師輔の三男・藤原兼家が摂政宣下を受けると同時に、藤氏長者宣下も受ける。
策略によって花山天皇を退位させて、娘が産んだ外孫の一条天皇を即位させて摂政となる。従って、花山天皇の退位と次の一条天皇即位に関しては兼家が決定したともいえる。そしてその後、兼家の系統が摂政関白を独占することになる。
皇紀1668年=寛弘5年(1008年)2月8日、花山天皇は41歳で崩御される。
更新:11月23日 00:05