2020年10月20日 公開
2020年10月20日 更新
「令和」という新時代を迎え、歴代天皇の事績をふりかえります。今回は冷泉天皇をお届けします。
※各天皇の年齢等については数え年で計算して記しています。
※即位年、在位年数などについては、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。
皇紀1610年=天暦4年(950年)5月24日、村上天皇の第二皇子として誕生された憲平親王で、母は藤原師輔の娘で中宮の安子である。藤原師輔は、摂政関白太政大臣としておよそ20年間朝政を執った藤原忠平(藤原北家)の次男で、先帝の村上天皇の御世は右大臣として朝政を担った。
憲平親王は誕生後2ヶ月の天暦4年7月23日、立太子されるが、前述の通り異母兄で第一皇子の広平親王を差し置いての立太子であった。
広平親王の外祖父・藤原元方(南家)は天暦7年村上天皇の御世、失意のうちに病死したといわれる。そして広平親王も皇紀1631年=天禄2年(971年)、22歳で薨去される。後に、元方と広平親王父子の恨みが祟って、これが冷泉天皇とその皇子である花山天皇の奇行や、三条天皇の病となって表れたと噂された。
皇紀1627年=康保4年(967年)5月25日、父帝・村上天皇が崩御される(42歳)。
そしてこの日、村上天皇は皇太子・憲平親王に譲位され、これを受けて憲平親王が18歳で即位された。
第61代朱雀天皇の皇女・昌子内親王が皇太子妃となっておられたが、即位と同時に皇后に冊立された。しかし皇子女には恵まれなかった。
6月22日、即位された冷泉天皇には精神に若干ご不例があって、藤原忠平の長男・藤原実頼が関白に就き、続いて8月19には内覧となって補佐した。
9月1日、憲平親王(冷泉天皇)が三ヶ月前に即位されたが、その同母弟である村上天皇の第五皇子の守平親王(円融天皇)が9歳にして、7歳年長の同母兄で第四皇子の為平親王を飛び越えて立太子された。
為平親王は皇位継承候補で、しかも左大臣・源高明の加冠により元服し、翌年にはその娘を娶られた。しかし為平親王がこの源高明の娘を妃にされたことが却って災いした。このままでは為平親王が皇位を継承される可能性が極めて高いため、同母弟・守平親王(9歳)が早々に即位されることになった。そして高明の追い落としが図られるのである。
10月11日、この時初めて内裏の紫宸殿で即位式が行われた。12月13日、藤原実頼が太政大臣に就き、冷泉天皇を補佐する。
皇紀1628年=康保5年(968年)8月13日、元号が安和に改元さる。安和元年11月24日、大嘗祭が催行された。
皇紀1629年=安和2年(969年)3月、為平親王の義父に当たる源高明が冷泉天皇を退位させようとしているとの噂が流れ、謀反の密告もあって左大臣・源高明(醍醐天皇の第十皇子)は失脚する。大宰員外帥に左遷され大宰府へ流された。謀反の内容は必ずしも明確ではない。
この時点での東宮候補が村上天皇と皇后・安子の間の皇子であるとすれば、ここでは今上・冷泉天皇の同母弟である為平親王と守平親王(円融天皇)であった。為平親王が7歳年長で、しかも源高明が為平親王の義父であるから、当然優先されるはずで、最優先で立太子される立場にあられた。
しかし為平親王が東宮となり将来即位されると、源高明が天皇の義父となり、皇子が生まれると高明は外祖父となる。しかも源高明は醍醐天皇の皇子で皇統の人であり、村上天皇からの信任も厚かった。そこで村上天皇もすでに崩御しておられることだし、藤原氏は「安和の変」を起こし、源高明を失脚させ、弟の守平親王(円融天皇)を、兄の為平親王を差し置いて東宮としたのであった。
これは結局、左大臣の源高明を排除する、藤原氏による典型的な他氏(源)排斥事件であった。源高明は九州に流されるが一年余りで帰京を許されている。謀反の噂は讒言であった。
この事件により藤原氏の他氏排斥が完了し、藤原氏の圧倒的支配体制が整うこととなった。もしここで源高明か、あるいはその側近が騒ぎ立てていたとしたら一騒動があったものと思われる。大規模な戦乱に発展した可能性もなくはない。高明はさすがに皇子で、おとなしく大宰府に下られ、藤原氏にとっては事なきを得ている。
この年、安和2年(969年)8月13日、健康上(ご不例)の都合で在位はわずか2年弱、20歳で皇太弟の守平親王(円融天皇)に譲位され、8月25日、天皇は冷泉上皇となられる。在位については皇統譜では3年とある。先帝・村上天皇が崩御されて譲位を受けられてから2年3ヶ月であるから3年弱ということであろう。「安和の変」で源高明を失脚させた上で、守平親王(円融天皇)に譲位されたのであった。
結局は、冷泉天皇は源高明の娘婿に当たる為平親王を排除して守平親王を即位させるために、中継ぎとして立てられた天皇であったと思われる。
皇紀1671年=寛弘8年(1011年)10月24日、冷泉上皇は第67代三条天皇の御世、62歳で崩御された。上皇在位の期間は42年と、陽成天皇に次ぐ長期となった。
更新:11月22日 00:05