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これだけは押さえておきたい「日米中の歩み」

2020年11月21日 公開
2023年01月05日 更新

河合敦(歴史作家/多摩大学客員教授)

 

中国大陸の社会主義化、アメリカの対日政策の転換

戦後、実質的に日本を単独統治下に置いたアメリカは、日本軍を解体し、財閥解体などで経済力を削ぎ、二度とアメリカに逆らえない弱国にしようとした。

ところがその後、アメリカは占領政策を大きく転換する。ソ連との冷戦が激化し、アジアの社会主義化が進んだからである。

戦後、朝鮮半島は北緯38度線を境に、以北をソ連が、以南をアメリカが分割統治してきたが、昭和23年(1948)、北部に北朝鮮、南部に韓国が建国された。北朝鮮は、東アジアで初めての社会主義国家であった。

さらに衝撃だったのは、中国情勢だ。

日本が敗北すると再び国共内戦が始まり、昭和24年(1949)、共産党が勝利して毛沢東を主席とする中華人民共和国が誕生したのである。敗れた国民党(中華民国)は台湾へ移ったが、広大な中国大陸が社会主義化してしまったのだ。

中国の社会主義化に触発された北朝鮮は、昭和25年(1950)、半島統一をかかげ韓国へ侵攻。韓国軍は半島南端の釜山まで追いつめられた。しかし、アメリカを中心とする国連軍が上陸して、北朝鮮軍を押し返した。

ところが今度は中国人民義勇軍が北朝鮮軍に味方し、ソ連も北朝鮮に物資援助をおこなったので、38度線周辺で戦線は膠着した。この朝鮮戦争で初めて、米中は戦火を交えた。

こうした状況ゆえ、アメリカは日本を自由主義陣営の砦にしようと経済復興を助け、朝鮮戦争の最中に警察予備隊を発足させ、事実上の再武装を容認したのである。

 

 

日米安保、米中の関係改善、日中国交正常化…

昭和26年(1951)、日本は講和会議でアメリカなど四十八カ国とサンフランシスコ平和条約を結んで、独立国家として主権を回復した。会議には、中華人民共和国と中華民国を招待しなかった。どちらを中国の代表政府とするかで、アメリカとイギリスが揉めたからだ。

なお、講和に際して連合国のほとんどは、日本への賠償請求権を放棄してくれた。もちろんアメリカの配慮だったが、それがなければ、日本はあれだけ短期間に立ち直ることはできなかったろう。

平和条約が調印された日、日本はアメリカ軍の駐留を認める日米安全保障条約を結んだ。こうして日本は、完全にアメリカの世界戦略に組み込まれたのである。

また、アメリカに追従して日本は中国の代表政府を蔣介石の中華民国とし、昭和27年(1952)、日華平和条約を締結、一方、中華人民共和国とは国交を結ばなかった。

昭和40年(1965)、アメリカは本格的にベトナム戦争に介入したが、ソ連と中国が、アメリカと敵対する北ベトナムと解放民族戦線を助けたために戦争は泥沼化。アメリカは、膨大なドルを戦争につぎ込むことになった。このためドルの信用は揺らいだ。

ニクソン米大統領はベトナムからの「撤退」と経済の再建を目指し、昭和46年(1971)、敵対していた中華人民共和国への訪問計画を発表した。米中両国の関係を改善してベトナム戦争を早期に終わらせるためだ。翌年、ニクソンが訪中して中国との和解を実現した。

この訪中は直前まで、同盟国である日本に知らされていなかった。日本政府はこれに衝撃を覚えた。そこで発足したばかりの田中角栄内閣は、ニクソン訪中の半年後、首相自らが北京へ赴いて日中共同声明を発表、アメリカより早く中国との国交を正常化させたのである。

声明では、日本が戦争で中国に重大な損害を与えた責任の痛感と深い反省、中華人民共和国政府を中国唯一の合法政府と承認すること、中国は日本に戦争賠償の請求を放棄することを宣言した。

以上が、近現代における日米中関係の概観である。

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