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これだけは押さえておきたい「日米中の歩み」

2020年11月21日 公開
2023年01月05日 更新

河合敦(歴史作家/多摩大学客員教授)

 

国民政府の中国統一、満洲事変…高まる日中の緊張

なお、中国では辛亥革命で清朝が滅び、明治45年(1912)、孫文を臨時総統とする中華民国が誕生。その後、実権は袁世凱に移ったが、彼の死後は各地に軍閥が盤踞する状況になっていた。

そこで大正15年(1926)、孫文の後継者である蔣介石が、国民党を率いて全国の平定(北伐)を開始、2年後、満洲を含む中国全土を統一した。

蔣介石の国民政府は、列強に不平等条約の無効を宣言。中国国民も、列強に奪われた国権回収を声高に叫ぶようになる。

これに危機感を覚えたのが、関東軍であった。関東軍とは、関東州(満洲の一部)と南満洲鉄道を守備する日本軍のこと。参謀の石原完爾らは、満洲全土を領有しようと、昭和6年(1931)9月18日、柳条湖で日本が経営する南満洲鉄道の線路を爆破、これを中国軍の仕業として大規模な軍事行動を開始した(満洲事変)。

若槻礼次郎内閣は不拡大方針を出すが、なんと関東軍はこれを無視。翌年には満洲の諸都市を占領、清朝最後の皇帝・溥儀を引っ張り出し、彼を執政とする満洲国を建国したのである。

こんな暴挙が可能だったのは、国民の熱狂的な支持があったからだ。

第一次大戦以後、日本は慢性的な不況に陥り、さらにアメリカに端を発する世界恐慌の影響で、昭和5年(1930)には多くの企業が倒産し、農村もすさまじいダメージを受けた(昭和恐慌)。だから国民は満洲事変が起こると、広大な土地が手に入ると喜んだのである。

一方、アメリカは満洲事変の不承認宣言を発し、国際連盟でも満洲国は否認された。すると日本は、連盟から脱退して国際的な孤立への道を選び、中国の華北五省へも進出していった。

ところが蔣介石は、日本と対峙しようとしなかった。毛沢東率いる中国共産党との戦いを優先したのだ。だが、中国で抗日救国運動が高まると、蔣も内戦を停止して日本との対決を決意する。

 

日中全面戦争から太平洋戦争へ

そのような状況で迎えた昭和12年(1937)7月7日、北京郊外の盧溝橋で、日中両軍の軍事衝突が起こった。近衛文麿内閣は兵の増員を決定、すると蔣介石も徹底抗戦を宣言、はからずも日中全面戦争が始まってしまったのである。

日本軍は主要都市を制圧していったが、アメリカなど列国が国民政府を支援したため、戦争は泥沼化した。

さらに昭和14年(1939)7月、アメリカは日米通商航海条約の破棄を通告してきた。日本は軍需資材の多くをアメリカに依存していたので、条約が失効すれば厳しい状況に追い込まれるのは明らかだった。

ところがその直後、友好国のドイツがポーランドへ侵攻して、第二次世界大戦が勃発。しかもドイツはフランスを降伏させるなど連戦連勝。そこで日本は、ドイツの勝利を頼みとして翌年9月、フランス領インドシナ北部へ軍隊を進め、日独伊三国同盟を結んだのである。

するとアメリカは、鉄くずの輸出を禁止するなど経済制裁を強化。対して、日本国内では、対英米戦覚悟で、さらに資源豊富な東南アジアへ進出すべきだという声が高まった。

第二次近衛文麿内閣は戦争回避のため日米交渉をおこなうが、昭和16年(1941)7月、日本軍がインドシナ南部に進駐すると、アメリカは在米日本資産を凍結し、石油の輸出を禁止した。

アメリカに石油を断たれたら、中国との戦争を完遂できない。さらにアメリカは、中国からの全面撤退や日独伊三国同盟の実質的破棄を要求(ハル・ノート)してきた。

ここにおいて日本は戦争を決意、日本海軍の真珠湾奇襲攻撃により太平洋戦争が始まった。

だが、あまりに国力の差が大き過ぎ、3年半持ち堪えたものの、アメリカに制海権・制空権を奪われ、沖縄本島が陥落、本土に原爆を落とされ、さらにソ連が参戦してくると、昭和20年(1945)8月、日本軍はアメリカや中国などの連合国に無条件降伏した。

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