2020年09月23日 公開
2022年12月07日 更新
福沢諭吉、大村益次郎、橋本左内……幕末から明治期にかけて、多くの人材を輩出した適塾。その創設者・緒方洪庵は、部屋住みに甘んじるしかない、武家の病弱な三男坊だった。「世のため民のために尽くしたい」…その想いひとつで、彼は医者を志す。
※本稿は月刊誌『歴史街道』2020年9月号より一部抜粋・編集したものです。
「洪庵。『種痘』……と申したか。なんでも牛の膿を童の身体に植えつける西洋の療法とか。まこと、童にそれを施せば、その童が天然痘を患う気遣いはなくなる、と申すのじゃな」
足守藩主の木下利恭(きのした・としやす)は、詰問するでもなく穏やかに、目の前に平伏している蘭方医の緒方洪庵に尋ねた。
天然痘。疱瘡、痘瘡とも言う。非常に感染力の強いヒトの伝染病で、かかると全身の皮膚に膿疱が広がり、重症化した場合、致死率は50パーセントにも達する。
ヨーロッパ等では紀元前から広まっている病で、日本には平安時代以前、朝鮮半島経由で伝播し、近代まで多くの人々の生命を奪ってきた。
種痘とは、牛痘(牛の天然痘)の菌をヒトに植えつけることで、ヒトの体内に天然痘の抗体を作り、強い免疫力を事前に持たせる治療法、つまりはワクチンである。
イギリス人医師のエドワード・ジェンナーが1796年に発表した治療法で、洪庵は、この「ジェンナー牛痘法」を知るや、積極的に日本での普及を目指してきた。
木下利恭に問われた洪庵は、
「は。確(しか)と」
と物静かに、しかし自信をもって堂々と答えた。嘉永3年(1850)。緒方洪庵、41歳の年である。
洪庵はこの頃、すでに全国に名を馳せる蘭方医で、この10年ほど前には「適塾」という西洋医学や科学を教える塾を開き、多くの門弟を抱えている。
足守藩(現・岡山市北西部)は洪庵の故郷であり、もともと洪庵は、小藩ながら足守藩士の下級武士の子として生まれた。その縁あって、この時期は足守藩主の侍医も勤めていた。
「お待ちくだされ、殿」
側に控えていた家老が、あわてるようにして口を挟んだ。
「民のあいだでは、牛の膿などを植えつけようものなら、牛に変化してしまうとか、気がふれて牛のごとく暴れ回るとか申す話が、まことしやかに流布しております。
種痘を民に施す触れを出すのは、民心に要らぬ恐れを抱かせ、藩の政を乱すことになるやも知れぬかと……。今一度ご再考を」
洪庵は「またか」と、内心ウンザリした。
家老の言葉は、種痘の治療法を人々に説明するたび何度となく、怖じけ恐れた顔で聞かされた反応である。
「さようなことは、万にひとつもございませぬ。根も葉もない迷信に、ございます。現に、我が甥にも種痘を施し、見事に成功してございます」
洪庵は、やはり物静かに、だが全く臆することなく、きっぱりと答えた。家老は、その洪庵の秘めた迫力に、たじろいだ。
「ふむ」
木下利恭は聡明な大名だった。くわえて、蘭学(オランダ経由で輸入される西洋の科学)に理解があり、むしろ好感を持っていた。
「種痘で民を天然痘から守れるなら、それに越したことはない。じゃが、民の恐れも分からぬではない。
洪庵。ここはひとつ我が息子に、まずは種痘を施すがよい。大名自らが子に種痘を施せば、民も少しは安堵しよう」
「え。若殿に」
洪庵は、利恭の英断に感激した。そして利恭の、我が身に対する信頼に心底から感謝した。
こうして領内に「足守除痘館」が建てられ、洪庵が館長に就いた。除痘館では、まず主命どおり、木下利恭の子が種痘を受けた。
領民は「お殿様が保証してくださるならば」と、安心して除痘館に子供を連れてきた。こうして、足守藩領内の子供1500人が、天然痘の危機から守られた。
「これで、故郷に御恩返しができたな」
洪庵は、独り満足の笑みを浮かべた。
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更新:11月25日 00:05