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橋本左内~安政の大獄で散った福井の志士

2017年10月07日 公開
2018年09月25日 更新

10月7日 This Day in History

橋本左内

二十六年 夢の如く過ぐ……橋本左内処刑

今日は何の日 安政6年10月7日

安政6年10月7日(1859年11月1日)、橋本左内が処刑されました。幕末の志士で、医師、政治思想家として知られます。

天保5年(1834)、左内は福井藩の藩医・橋本長綱の長男として、福井城下の常盤町に生まれました。諱は綱紀。幼少より学問を好み、10歳で『三国志』全65巻を読破して、きちんと理解していたといいます。15歳の時、自己を律する行動指針ともいうべき「啓発録」を記しました。そこには「稚心(幼い心)」を去り、「気を振るい(負けじ魂を持ち)」、「志を立て」、学問に「勉め」、「交友」を択ぶという5つの事柄の実践を自分に課しており、とても15歳の少年が書いたものとは思えません。

藩の医学校・済世館で漢方医学を学んで後、嘉永2年(1849)、16歳で大坂に出て、緒方洪庵の適塾に入門、蘭学や西洋医学を学びます。ここでも左内はずば抜けた秀才ぶりを示し、洪庵は「他日、塾名を上げる者は左内」と語りました。また適塾時代、左内は夜中に塾を抜け出しては、天満橋の下の貧しい人々に無償で治療を施し、自腹を切って栄養価の高い食べ物を与えていたといいます。その一方で、梅田雲浜、横井小楠といった思想家とも交わりました。

その後、帰国して父の跡を継ぎ藩医となったものの、学問をさらに研鑽したいと望み、安政元年(1854)、21歳の時に藩の許可を得て江戸遊学に出ます。そして坪井信良や杉田成卿らに蘭学を学び、また薩摩の西郷吉之助(隆盛)、水戸の安島帯刀、藤田東湖、松代の佐久間象山らに接しました。西郷は左内について「その才器、学問、識見、到底自分は及ばない」と語り、また藤田は「福井にこの人あり」と評しています。

安政4年(1857)、24歳で藩校・明道館の学監心得に任じられると、教育改革に取り組んで、藩校に洋学を導入するよう尽力。こうした仕事ぶりが藩主・松平慶永(春嶽)の耳に入り、同年8月に再び江戸に出て、藩主の側近くに仕えることになります。そして当時の幕府が直面していた米国との通商条約調印問題や、14代将軍の継嗣問題において、藩主の手足となって奔走、将軍継嗣問題では一橋慶喜を推す一橋派の一翼を担って、幕政改革を唱えました。その意見は幕藩体制を維持しつつも、西欧の先進技術の導入を図ろうとするもので、当時としては、極めてまっとうなものといえるでしょう。

しかし、対立する井伊直弼が大老に就任すると、反対派諸侯は厳罰に処され、左内の主・松平慶永も隠居・謹慎に処されます。さらに安政5年(1858)10月には左内までが謹慎となり、翌年、将軍継嗣問題に介入したことを理由に、「公儀憚らざる致し方、右始末不届きにつき死罪」と小伝馬町の獄舎で斬首されました。

左内は死の直前、「二十六年 夢の如く過ぐ」で始まる詩を詠んでいます。享年26。一説にオランダ語だけでなく、英語、ドイツ語も解し、和漢の書に通じていたといわれる左内。彼がもう少し生きながらえていたら、どれほどの働きをしたであろうかと、早すぎる死が惜しまれます。

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