2020年09月23日 公開
2022年12月07日 更新
緒方洪庵が生を享けたのは、文化7年(1810)である。生涯にたびたび名を改めているが、本稿では煩雑さを避けるため「緒方洪庵」で通す。
父は、下級武士ながら有能な人物で、藩の会計・財務に係わる役目を与えられ、よく藩務に励んだ。役目柄、京都や大坂、江戸に出張することも多かった。
洪庵は、そんな父から土産話に聞く大都市圏の様子に、大いに興味をそそられた。洪庵が、地方の小藩に育ちながらも狭量な価値観や迷信めいた知識に縛られず、世界の学問に関心を持ちえたのは、そんな境遇だったゆえである。
洪庵は三男だったが、長兄が夭折したため、実質次男として育てられた。兄は、生来虚弱な洪庵とは正反対に、頑強な体軀で武芸にも秀で、将来を嘱望されていた。
とは言え、家族仲はじつに円満で、両親とも、子供に区別なく満幅の愛情を注いで育てた。だが洪庵はそれだけに、両親の愛に応えられるだけの人物になりたかった。
「兄上さえいてくだされば、我が家の将来は安泰だ。それに引き換え、私は何ができるだろう。このまま兄上の部屋住み(居候)として安穏と生涯を送るなど、馬鹿げている。私も何かで、世のため民のために尽くしたい」
考えあぐねた洪庵は、ひとつの道を見出した。
「医の道だ。民を守り、救うことこそ武士の務めだ。病から人を救う。身体の弱い私が進むべきは、これしかない」
16歳となり元服を済ませた洪庵は、翌年、父に自分の決意をしたためた手紙を書いた。
この時、父は藩命で藩の倉を造るため、洪庵を連れ大坂に出ていて、同居していた。だから、直接話せば済むことではある。
が、身近な者同士でも、大切な事柄を伝える際に対話ではなく手紙を用いるのは、武家の慣習であった。
手紙を読み、洪庵の強い決意を汲み取った父は、あらためて洪庵に尋ねた。
「おまえが本気で医者になりたいというのなら、許そう。修業として、どこぞの漢方医に弟子入りするつもりなのかね」
「いえ、父上。私の目指したいのは蘭方医です。西洋の医学は、従来ある漢方より、はるかに進んでいます」
当時、蘭学は志あるインテリ層の武士や学者のあいだで広まっており、江戸や大坂、長崎などには、すでに幾許かの蘭方医がいた。
オランダ語の学術書(ヨーロッパ各国で出された書物をオランダ語に翻訳したもの)も多く輸入されていて、それらは語学に秀でた日本の蘭学者によって、さらに日本語版として、少ないながら流布していた。
こうして洪庵の修業時代が始まった。
洪庵がまず門を叩いたのは、大坂でその名を知られる中天游(なかてんゆう)という蘭方医の塾である。
洪庵がこの塾に入って、まず驚いたのは、蘭学の蔵書の数と、その幅の広さだった。
医学に限らず物理・化学・天文学……と、自然科学のあらゆる書物が揃っている。天游の蘭学者としての学識の深さが窺える。蔵書は、日本語に翻訳されたものに限らず、直接輸入されたオランダ語のものも、じつに多い。
その錚々たる蔵書の山に、きらびやかささえ覚えた洪庵は、
「これを全て読んで、我が糧としよう」
と、強く心に誓った。
洪庵の吸収力と語学力は、桁外れだった。天游の講義を受けてオランダ語を学びつつ、塾の蔵書を片っ端から読んでいった。
3年もすると全ての蔵書を読み終え、塾で洪庵の右に出る者はいなくなっていた。師の天游も、洪庵の学力に舌を巻いた。
「緒方君。君が学ぶべきものは、ここには、もうない。だが蘭学は日進月歩の発展を見て、ここで学び尽くしたとて、まだまだ新しい学びの道が江戸にはある。わしはもう歳で叶わぬが、君ならできる。江戸へ行きたまえ」
天游の思いやりに、洪庵は涙が出そうだった。
「先生からのこれまでのご厚情は、生涯忘れません。仰せのとおり江戸へ発ちます」
この時、洪庵、21歳である。
江戸では、偶然にも出張で来ていた父との再会を果たし、父は息子の成長ぶりを大いに喜んだ。
とは言え、もともと学費もなく、修業の日々は、まさしく〝苦学生〟のそれだった。日本語版のまだ出ていない蘭学書を訳し、立ち寄った土地で短期間の塾を開く。珍しいものとしては、義眼造りまでやった。
そんなふうにして日銭を稼ぎながらの、貧しい江戸での修業である。しかし、天游の塾で学んだ洪庵の学力は確かなもので、彼のこれら〝アルバイト〟は、どこでも大歓迎された。
更新:11月25日 00:05