2020年08月06日 公開
2023年02月27日 更新
写真:晩年、自宅の謹慎所の今村均
近年、企業や団体に問題が生じ、トップの責任が問われる機会が増えている。
そうしたときの姿勢のあり方として、今こそ見直したいのが、日本陸軍の名将・今村均である。
今村は、オランダ領インドネシア・ジャワの占領地統治(軍政)において、「やり方が生ぬるい」という陸軍内部の批判に応じることなく、あくまで筋を通した。
その姿勢から、リーダーのあるべき姿を探る。
※本稿は、歴史街道編集部編『太平洋戦争の名将たち』より、一部を抜粋編集したものです。
軍人には、二つの顔がある。
陸軍省や参謀本部で働く「軍官僚」と、戦場に立って戦う司令官などの「現場の責任者」だ。
この二つをこなした人が、本当の意味での「軍人」である。どちらか一つだけに秀でた者は「軍官僚」、あるいは「現場責任者」と捉えるべきだろう。
たとえば、東條英機は関東軍参謀長を務めたが、現場で戦ったことがほとんどなく、典型的な軍官僚である。
では、今村均はどうか。両方をこなしたから、「軍人」と呼んでいい。ただし、彼は日本陸軍のメインストリートを歩んだ人ではなかった。
そもそも今村は、新潟県の新発田中学校を卒業後、第一高等学校へ進もうとしていて、軍人を志望していなかった。一高を出たら、東京帝国大学に入り、知識人、あるいは官僚になるコースを歩もうとしていたと思われる。
しかし、父が急逝したことで、高等学校に進学するだけの余裕がなくなった。そこで、学費のかからない陸軍士官学校を選び、明治38年(1905)、その19期生として入学したのだ。
ちなみに、陸軍士官学校の19期は「異例」と評することのできる特徴がある。全員が一般中学出身者であり、陸軍幼年学校からの入学者が一人もいなかったことだ。
これは日露戦争で将校が足りなくなると気づいた日本が、陸軍士官学校の門戸を広げたためである。
期によって比率は異なるが、幼年学校から300人くらい、一般中学から50人くらいが士官学校に入るのが普通である。
陸軍の主流は幼年学校組であり、「幼年学校」、「ドイツ語」(幼年学校はドイツの軍学が重視されたからだ)、「陸軍大学校」が出世の条件だった。
一般中学出身者は、多くが英語を学んでいて、ドイツ語ができないから、二つの条件が欠けることになる。一般中学出身者だけの19期生は、おしなべて出世が遅かった。
更新:11月25日 00:05