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今村均とジャワ軍政~陸軍内部の批判に応じなかった「真の軍人」

2020年08月06日 公開
2023年02月27日 更新

保阪正康(ノンフィクション作家)

 

一般中学で培われた特色

今村均を考えるうえで、幼年学校ではなく、一般中学の出身だったことは重要である。

一般中学出身者と幼年学校組は、どこが違うのか。

一般の中学校も幼年学校もだいたい13歳で入学するが、中学では5年の学業期間に政治、経済も学んで幅広い知識を得るし、小説などの本を読んで基礎教養を身につける。

一方、幼年学校で勉強するのはもっぱら軍事である。極端な言い方をすれば、軍事しか知らない人間が育つのだ。

もちろん、幼年学校出身者のすべてにそれが当てはまるというわけではなく、バランスの取れた人物もいたことだろう。

しかし、一般中学出身者のほうが、人間的なふくらみがあるというのは、総じて妥当な見方だと思う。今村の陸軍士官学校の同期である本間雅晴や、後輩ではあるが、硫黄島で指揮を執った栗林忠道も一般中学出身者である。

一般中学出身である今村の特色が顕著にあらわれたのは、第十六軍司令官として行なったオランダ領インドネシア・ジャワの占領地統治(軍政)だろう。

「軍政」というと、強圧的なものというイメージが強いが、今村の場合は「現地の人の生活を守る」を前提とした行政である。

今村はジャワの人たちの意見をよく聞き、彼らの生活ルールを尊重した。

また、有無をいわせずに資源を徴発する他の軍人とは異なり、適正な価格で購入するという形を取った。

「日本にもっと資源を送れ」という要求があ っても、今村は、「現地の人の生活が崩れてしまう」という理由で反対し、大本営を説得している。

それから、スカルノ、ハッタといった、オランダに抵抗した独立運動の指導者を牢屋から出したり、インドネシア独立の歌を歌うことを許したりもしている。その地の歴史、民族の誇りをおろそかに扱うことはなかったのだ。

このような今村の方針に、「やり方が生ぬるい」という批判が陸軍内部で出た。

軍務局長の武藤章が今村を訪ねてきて、日本軍の威厳を高めるよう求めたことがある。

このとき今村は、陸軍の「占領地統治要綱」にある「公正な威徳で民衆を悦服させ」を引き合いに出して反論し、「職を免ぜられない限り、方針は変えない」といって応じなかった。

 ジャワにおける今村の占領地統治は、ある種の歴史的正当性を持っていると思うし、それは一般中学で学んだことと、彼の人格が調和した結果だと言えるだろう。

 

ラバウルでの指揮から見える能力

今村均は現場でどう戦ったか。

昭和17年(1942)11月から終戦まで続いたラバウルにおける指揮を見れば、有能な司令官だったことは明らかである。

第八方面軍司令官に補された今村がラバウルで採った方針の一つは、兵士を無駄死にさせないということだ。

日本の戦争で問題なのは、兵站の軽視である。典型的な例はガダルカナル島の防衛戦だろう。武器弾薬はもとより、食料さえも不足し、敵と戦う前に、餓えと戦う羽目に陥っている。

今村はラバウル防衛のために要塞化を進めただけでなく、兵士に畑をつくらせ、食料の自給体制を構築した。

今村自身も畑を耕したといわれるが、そのおかげで、補給を断たれてラバウルが孤立しても、餓死者を出すことなく頑強に守り抜くことができた。

「兵士を無駄に死なせてはいけない」
「兵站をきちんとしなければいけない」

当たり前のことを、今村は戦場で実行したのである。

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