戦国時代になると、対馬の住民を中心に、朝鮮の三浦に住んで貿易をするようになりました。
しかし1510年には、貿易を制限しようとする朝鮮と対立。三浦の住民が、対馬の宗氏と連携して武力蜂起する事件が起きます。この蜂起は鎮圧され、以後、日朝貿易は衰えていくこととなりました。
16世紀後半になると、豊臣秀吉が全国統一し、1592年に朝鮮へと出兵します。
もっとも、秀吉は当初から、朝鮮出兵を計画していたわけではありません。
秀吉の目的は中国の明を征服することにあり、朝鮮には最初、明征服の先導役を求め、それが断られると、明への道を貸してほしいと依頼しました。それも断られたために、朝鮮を攻めることにしたのです。
序盤戦では、朝鮮内が一枚岩でなかったこともあり、戦馴れした日本軍が快進撃を見せました。しかし、明からの援軍に加え、朝鮮水軍や義兵(有志)の活躍により日本の進撃は止まり、戦線は膠着します。
結局、6年に及ぶこの戦いは秀吉の死によって終結しますが、日朝双方に大きな被害を出すだけでなく、朝鮮の人々に日本への恨みを残すこととなりました。
また朝鮮出兵は、豊臣政権の弱体化にもつながり、関ケ原の戦いを経て、徳川家康が幕府を樹立します。
家康も宗氏も朝鮮との早期講和を目指しており、宗氏が奔走し、1607年に朝鮮の使節が来日して国交は回復しました。
1609年には、朝鮮と宗氏の間で、己酉約条が結ばれ、貿易が再開されます。
また江戸時代には、将軍の代替わりを中心に、朝鮮通信使という使節団が、12回にわたり日本を訪れています。
日本の学者は朝鮮のほうが学問が進んでいると考えていたので、まれに訪れる通信使から様々な情報を得ようとして、積極的に交流を求めました。通信使が「もう、いい加減にしてほしい」と記録に残すほど、当時の日本人は熱心でした。
ただ一方で、朝鮮の人々に対する蔑視もありました。
中国には華夷秩序といって、中国が世界の中心で、周辺の国は未開であるとする思想があります。それと似たように、当時の日本にも、日本こそが世界の中心とする、日本型華夷秩序というべき考えがあったのです。
しかし朝鮮にも、朝鮮を中心とする同様の思想があり、当時から両国の間には複雑な感情があったと見ていいでしょう。
更新:11月24日 00:05