936年、朝鮮半島を統一した高麗が、日本に国交樹立を求めてきます。しかし日本は、これを受け入れませんでした。
こう見ると、日本は海外との交流を絶ったかのように見えますが、そうではありません。 中国では960年に宋が成立しますが、海商を中心として、日本は宋や高麗と貿易を進めていくのです。公的関係はなくとも、民間交流はかなり活発でした。
また12世紀になると、平清盛が日宋貿易を振興していきます。
ところが13世紀に入ると、モンゴル(元)が台頭し、中国や朝鮮半島に侵攻し、アジア情勢が変化していきます。
モンゴルは1231年から高麗への侵攻を開始。1259年に、高麗を従属させます。しかし、高麗の武人たちはその後も抵抗運動を展開しました。この三別抄の乱によって、モンゴルの日本への侵攻が遅れたとする見方もあります。
やがて朝鮮半島を押さえたモンゴルは、1274年と1281年の二度にわたって、日本に遠征軍を派遣していきます(蒙古襲来)。その中には高麗軍も多数含まれていました。
日本側は鎌倉幕府が防衛にあたり、二度とも撃退することに成功します。しかも驚くべきことに、幕府もモンゴルの撃退後に、二度にわたって高麗への遠征を計画しています。
この計画は実現こそしなかったものの、仮に行なわれていれば、日朝関係もまた別の局面に突入していたかもしれません。
ともあれ、モンゴルの存在が日本に影響を及ぼしたように、日本と朝鮮半島は、中国大陸の動向と無関係ではいられないのです。
さて、日本が室町時代に突入すると、外国との間で、倭寇の存在が問題となってきます。
この時期の倭寇は、対馬、壱岐、松浦の人々が中心だったと見られ、朝鮮半島や中国の沿岸部で食料の略奪や、場合によっては住人を拉致して、売買することもありました。
倭寇が発生した要因としては、特に対馬では米がほとんどとれないため、飢饉が起きると、食料調達のための略奪に走るという背景があったようです。政治的にも南北朝時代に入っていたために、国の統制が取れにくくなっていたという面もあります。
被害を受けた高麗は1367年、日本に倭寇の禁止を求めました。その一方で、倭寇退治で活躍した李成桂が、1392年に高麗を滅ぼし、朝鮮王朝を樹立することとなります。倭寇の存在が、朝鮮半島における国家の興亡に影響を与えたといえるのです。
なお中国では、1368年に明が成立し、モンゴルは北方に追いやられました。
足利義満が室町幕府の将軍になると、明とも朝鮮とも正式な外交関係を持つようになります。しかし1419年、朝鮮が倭寇を退治するために対馬を攻める事件が起きました(応永の外寇)。
この事件後、対馬を治める宗氏が、朝鮮とのやりとりを主に担うようになります。
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朝鮮出兵から朝鮮通信使へ…衝突と国交回復の近世 >
更新:11月22日 00:05