2019年05月29日 公開
2022年12月28日 更新
日本のキリシタン大名というと、高山右近が有名だが、彼以外にも多くの武将たちが、キリスト教の洗礼を受けている。その一部ではあるが、名将や意外な人物を紹介する。
まず特筆すべきは、豊後の大名・大友宗麟だろう。天文20年(1551)にザビエルと対面した宗麟は、以後、その布教活動を保護。府内(現・大分市)では、神学校や病院が設立され、西洋文化が広まった。
意外にも受洗は遅く、天正6年(1578)のこと。しかし、直後の耳川合戦で大敗し、改宗が敗因だと批判の声があがる。それでも、信仰は棄てず、天正遣欧少年使節を派遣した。
近畿には高山右近の影響で入信した武将が多く、織田信長の婿・蒲生氏郷もその一人である。
氏郷は、松坂城主であった天正13年(1585)、右近の勧めで入信したとされるが、天正15年(1587)には秀吉の勧告により棄教。しかし、名護屋在陣中に再び信仰に入り、転封先の会津領民にも改宗を勧めている。文禄4年(1595)の臨終の際には、右近が示す十字架に痛悔したという。
黒田官兵衛も、右近と氏郷の影響により、天正13年にキリシタンとなっている。その信仰心は篤く、秀吉から棄教を勧告されても受けいれなかったともされ、それが不和の要因とも。慶長9年(1604)に没する際には、博多の教会に埋葬するよう遺言している。
意外なところでは、信長の孫・織田秀信もキリシタン大名である。
岐阜城主だった文禄4年からイエズス会と接触し、秀吉死後の慶長3年(1598)、受洗を明らかにした。それにより、岐阜城下に聖堂や救済施設が建設された。しかし、慶長5年(1600)の関ケ原合戦に伴う籠城戦で敗北。キリシタンだったことから自決せず、高野山に流されている。
他にも、多くのキリシタン武将がおり、入信の経緯や、足跡を辿ると、意外な歴史が見えてくるに違いない。
参考文献‥今村義孝著『蒲生氏郷』、中西裕樹編著『高山右近』、『特別展 南蛮-信長・秀吉・家康のみた東西交流-』ほか
更新:12月12日 00:05