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縄文人は戦争を誘発する農耕を拒んだ?

2019年04月17日 公開
2022年06月23日 更新

関裕二(歴史作家)

弥生文化はバケツリレーで広まった?

くどいようだが、炭素14年代法によって、弥生時代の始まりが数百年古くなった。ちなみに、なぜここまで大きく、年代観がずれていたのかというと、炭素14年代法が確立する以前は、土器編年によって、「おおよその年代」を推定していたのだ。

つまり、この土器よりもこちらの土器の方が古い、という、「土器が作られた順番」を正確に把握し、それを並べていき、東アジアの土器と比べたり、出土する地層も鑑み、などなどの作業を積み重ね、年代観は「推定」されていたのだ。しかし、世界中の考古学者、史学者が炭素14年代法を認めるようになったため、日本だけが従来の年代観にこだわっていると(こだわりたくなる気持ちもわかるのだが)、世界の年代観と合致しなくなってしまうのだ。

この結果、稲作の急速な普及という前提は、崩れ去った。征服者が押し寄せてきたのではなく、「バケツリレー」という言葉が使われるようになった。そして逆に、なぜ稲作は、一度東への進出を停滞させたのか、という謎が湧きあがってきたのである。

日本の「農耕社会化」は「弥生化」と呼ぶ。小林青樹は、弥生化に時間がかかった理由を、目に見えない「縄文の壁」があって、文化的攻防が勃発していたからだと指摘している(『弥生時代はどう変わるか』学生社)。

どういうことか、説明しておこう。

小林青樹は、縄文人が壁を取り払い、弥生人になるためには、大きな決断が必要であり、また水田稲作をはじめるには、共同作業をするのだから、集団の同意がなければならなかったと指摘する。また、新しい社会の枠組みを構築する必要もあったと、まず前置きをする。

その上で、「縄文の壁」は、6つの地域に存在したという。(1)南島の壁、(2)九州の壁、(3)中国地方と四国の壁、(4)中部の壁、(5)東日本の壁、(6)北海道の壁だ。このうち、南島と北海道は、弥生時代には突破できなかった。

北部九州でも、水田、環濠集落、金属器、弥生土器すべてが揃うまで、約200年を要している。弥生時代前期の関門海峡の東側では、日常生活でいまだに縄文系の道具類を使用していた。また、板付遺跡を起点にして、関東に弥生文化が到達するまで、400~500年、最初の水田が北部九州にできてからだと、約700〜800年かかっている。

したがって「弥生時代」と一つに括ってしまっているが、その弥生時代の3分の2の時間は、縄文的な暮らしを守ろうとする人たちと、新しい生活を始めた人たちが共存していた時期だったことになる。

この間、兵庫県神戸市付近( 新方遺跡。明石駅の北側)では、弥生前期に、無理矢理近畿側に越えようとした「弥生人」と在地民の間に小競り合いがあったようだ。縄文系の人骨が出土していて、6体の人骨のうち、5体に石鏃が伴っていたのだ。10数本の矢を受けていた。

 

戦争は農耕とともに始まった

東の縄文人は、なぜ弥生化を拒み続けたのだろう。

広瀬和雄は弥生文化が、日本文化の源流として、次の三つの特性を持っていたと指摘している。端的に弥生時代を表現していて、じつに参考になる。

第一は、水田稲作や金属器の製作・使用に代表される大いなる技術革新で、文明社会のいわば正の側面である。第二は、社会の階層化や戦争や環境破壊など、その負の側面とも言えるものである。第三は、そうした正・負の要素が中国王朝を中核にした東アジア世界のなかで動きはじめる、いうならば国際化である(『歴博フォーラム 弥生時代はどう変わるか』学生社)

かつて、弥生時代の始まりは、文明開化とみなされていた。それが、第一と第三の指摘に当たる。その一方で、第二の負の側面も、ようやく注目されるようになってきたのだ。それは特に、九州や西日本で顕著だった。

北部九州で始まった水田稲作は、大きな社会変革をもたらした。

具体的にいえば、富が蓄えられ、首長(王)が生まれた。弥生時代の到来によってもたらされた「縄文と異なる文化要素」は、水田だけではなく、武器、環濠も重要だった。水田は、それまで園耕民が行っていた農作業とは比べものにならないほど大規模で、人びとの共同作業が求められた。そして、それを指導し指揮する者が集団のトップに立つ。

こうして、弥生化が進むと、戦争が勃発する。コリン・タッジは人類が戦争を始めたのは、農業を選択したからだと述べている(竹内久美子訳『農業は人類の原罪である進化論の現在』新潮社)。

おそらくその通りだろう。余剰が生まれ、人口は増え、新たな農地と水利を求め、争いが起きた。日本列島でも、組織的な戦争は、弥生時代から始まったようだ。佐原眞も日本で初めて戦争が起きたのは弥生時代だといっている。

神話の中で日本の国土は武器(矛)を用いて作り出された。乱暴者のスサノヲをアマテラスは「弓矢」で迎え撃とうとしている。葦原中国を平定に向かった武甕槌神(たけみかづちのかみ)は剣の神だ。天孫降臨も神武東征も、武人が活躍する(『大系日本の歴史1 日本人の誕生』小学館)。日本神話の神々は、好戦的で弥生的だ。

その上で、戦争を次のように定義している。すなわち「考古学的事実によって認めることの出来る多数の殺傷をともないうる集団間の武力衝突」(佐原眞編『古代を考える稲・金属・戦争』吉川弘文館)だという。そして、戦争の証拠の九割は、農耕社会から出土すると指摘する。

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