2018年12月10日 公開
2023年03月31日 更新
同じく高知県立坂本龍馬記念館の特別展に展示されている史料に、「岡田家郷士年譜」がある。以蔵の弟である啓吉が藩の求めに応じて提出したものだ。ここには、以蔵斬首の2日後に、父・義平が藩家老・桐間蔵人に報告書を出していると記されている。なお、このときも岡田家は「御叱」という数日間の謹慎処分のみで済んでいる。
以蔵はなぜ斬首になったのか。その運命が暗転したのは、文久3年の8月18日の政変以降だ。武市が藩に捕縛されて、以蔵も身柄を拘束された。獄中の武市は「以蔵は拷問に耐えられず、口を割るのではないか」と危惧し、密かに毒殺を謀った。
じつはこのとき、武市は以蔵の父・義平に了承を得ようと相談し、挙句に反対されている。義平は、「人斬り」と畏怖されたわが子を、まだしっかりと愛していたのである。
つまり、親子は縁を切っていたわけではなかった。岡田家が藩から「寛大な処分」で済んでいた理由は未だに謎のままだ。さらにいえば、岡田家にはほかにも謎が残る。
以蔵が斬首されたのは、自身の罪をすべて自白したのちの慶応元年(1865)閏5月11日のことであった。ここで「岡田家郷士年譜」を読むと、ある記録が目につく。僅か1カ月後の6月に義平も命を落としているのだ。以蔵を失い、心労がたたった末の急死か。あるいは、わが子の後を追ったのか……。
新史料が発見されない限りは、以蔵と岡田家に関する新たな事実が浮き彫りにされることはないだろう。それでも、以蔵と岡田家の足跡を振り返れば、幕末という動乱に運命を翻弄されながらも、懸命に生き抜いた彼らの姿が窺える。
更新:12月10日 00:05