大井 それからもう一つ荻外荘のものもね、私ここで、みなさん及川(古志郎・兵31)さんの悪口ばかり言うものだから、私かなり調べているんです、この頃は。
及川(古志郎・兵31)さんは海軍大臣だから、私は随分カチンと思っているもんだから調べているんですけども。
あれはね、近衛(文麿)さんに、及川(古志郎・兵31)さんがすぐ一任したような書き方していますね。
これはね、『近衛手記』というのはね、終戦後一番最初、このへんのこと細かいこと出したのは『近衛手記』なんです。
あれはね終戦のすぐ翌年の2月1日に、自由国民というパンフレットで『近衛手記』というの出したんです(雑誌「自由国民」特輯「近衛文麿公手記・最後の御前会議」1946年、時局月報社)。
そしてその『近衛手記』の中に荻外荘会談、自分の誕生日に荻外荘会談のときに、まず及川(古志郎・兵31)海相が発言して、総理に一任すると言った、と書いてしまっているんです。
ところが、これも杉山(元・士12)メモを見ますとね、最初は豊田貞二郎(兵33)外相が発言し、その次に近衛(文麿)さんが発言している。
両方とも9月1日には交渉をもっと継続したいと。継続すべきだという主張をするんですよ。
そうしたら、東条(英機・士17)さんが同意できないと。
ここに書いているように、とてもとてもそんな話じゃない。我々は支那からの撤兵なんてとてもできない。私は誰が何と言っても、なんて頑張るわけですね。
そこで及川(古志郎・兵31)さんはね、まあそういうふうに議論されないで、どうですか、総理に一任されてはどうですかと言ったんです。
そして、私(及川)は、その外交のほうに継続するほうに賛成なんだが、しかし開戦のときは私も開戦というふうにせざるを得ませんと、こういう言い方なんです。
これもね、杉山(元・士12)メモをずっと見られると分かる。
この頃、最近、『高木惣吉日記』(1985年、毎日新聞社)というのが出ていますね。
あれもね、これは近衛(文麿)さんが、これは昭和18年かな。戦争中にね、高木(惣吉・兵43)さんに話している。荻外荘の様子のことを。
西園寺日記(『西園寺公と政局』〈全9巻〉1950─51年、岩波書店)を書いた原田熊雄、あれの家に高木(惣吉・兵43)さんが呼ばれていった、訪問に行ったところが、そこで近衛(文麿)さんが来たんですよ。
近衛(文麿)さんが延々と色々喋っている。
その高木日記にもね、杉山(元・士12)メモとは違って、及川(古志郎・兵31)さんがすぐ総理に決めてもらうと言って、どうとかいう話が始まっているんですけれども。
杉山(元・士12)メモというのはね、杉山(元・士12)さんは荻外荘に出ていないんだけど、荻外荘から出てくると、東条(英機・士17)さんが直ちに杉山(元・士12)さんには話した。その杉山(元・士12)さんに話したことを、有末(精三・士29)か誰か、戦争指導課の人に口述したんですよ。それですから、非常に、あれは一番詳しい。荻外荘の会談のやつは。
こういうふうに見ていければ非常にいいんですけど、一般の印象というのは、あの『近衛手記』なんていうのがパーッと出ていったものだから、近衛(文麿)さんが前面に出ちゃったんです。
自分(及川古志郎・兵31)も平気で下駄預けたわけだ。下駄預けたという言葉を使ったのは見たことないけど、下駄預けたみたいなことを言っちゃったんですな。このへんは、私は及川(古志郎・兵31)さんを、あれ(擁護)する。
ここでも少数派だということはよく分かっていますけど、よくみなさんもっと調べてもらいたいというんです、私はね。
でも金網の中の(機密扱い文書)見ろというわけにも私いかんので、これはどうして見せられたかなんていうと、ちょっと困るところあるもんだから、私はこれはちょっと今言いませんが、私は責任を持って言います、これは。
今言ったこと一句一句は違いますよ。私の頭で、プアな記憶力の頭で、ふっと概念を言っているだけで、とにかくそのへんを、今頃なら見せるんじゃないかな。
私(が見たの)はよほど前だから、どうですか今、見せませんか。
末国 さあどうですかな。
更新:11月24日 00:05