楠木正成は、後醍醐天皇に召しだされる前は「悪党」と呼ばれていた。大きな寺や社に納められる年貢(税金)を途中で奪ったからだ。しかし、かれはこれを私しなかった。全部近隣の貧しい民に与えた。また、いつも民衆と一緒になって暮らしていた。
山本五十六も同じだ。かれは、格好をつけなかった。かれ自身はずいぶんと人見知りをし、好きな人間と嫌いな人間があったようだが、
「連合艦隊司令長官には誰がいいか」
ということが話題になると、ほとんどの者が、
「それは山本五十六中将以外ない」
と異口同音に答えたという。
つまり、山本五十六は、リーダーにおける本体の条件を満たしていただけでなく、プラスアルファになる人間的付加価値の面で、他のリーダーがおよばないようなものをたくさん持っていたのだ。並べてみれば、軍人としての責務感が非常に強かったこと、言うことと行なうことが一致していたこと、私欲がまったくなかったこと、ズバ抜けて部下思いであったこと、誠実であったこと、人の意見をよく聞いたことなどだ。また、子供のときに見た曲芸の術を覚えて、いろいろな席で皿まわしをやっては列席者を沸かせたということも、魅力のうちに入るだろう。
これらのことは、トップリーダーとして、普通なら格好をつけて品位を保つところを、自分の弱点や人の善さをさらけだしたということだ。これはとりもなおさず、山本五十六が「人間の傷の痛さ」を知っていたからにほかならない。自分の傷が痛いからこそ、人の傷をいたわろうとする優しさがあったのだ。これが、山本五十六の人望を高めたゆえんだろう。
また、かれはよく、
「『いまどきの若者』は、などと絶対にいうな」
といった。そのことは、若者の中に潜む可能性に大いに期待していたということだ。
かれは、
「若い奴が何をしたかだけでなく、何ができるかも考えてやれ」
ともいった。これは、若者にも温かい理解を示すものとして、五十六の人間的な奥深さを感じさせる言葉だ。
一言でいえば、山本五十六や楠木正成は、パーフェクト(完全)なリーダーではなかった。しかし、完全でないからこそ、後から従う者がその部分に入りこめたということだ。それが、山本五十六や楠木正成への親しみを増加させた。
言葉を換えれば、他者を受け入れる器を持った人物だったということだ。他者を厳しくはねつけるリーダーは、結局は敬遠され、あるいは嫌われる。その意味で、この2人は「愛されるリーダー」だったのである。
※本稿は、童門冬二著『歴史人物に学ぶ 男の「行き方」 男の「磨き方」』より、一部を抜粋編集したものです。
更新:11月25日 00:05