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山本五十六と楠木正成――人を動かすリーダーの条件

2018年11月26日 公開
2022年08月09日 更新

童門冬ニ(作家)


山本五十六
 

二人の先見力とゲリラ戦

つまり、山本五十六も楠木正成も、現在の指導者に最も必要とされる「先見力」を持っていた。2人は、これからの世の中がどう変わっていくかをきちんと見極めていた。楠木正成は日本的視野で先見力を発揮し、山本五十六は国際的な視野で先見性を発揮していた。しかし、両方とも首脳部の受けいれるところとはならなかった。そのため、2人に悲劇が起こった。楠木正成は、足利の大軍のまっただ中で壮絶な戦死を遂げた。山本五十六は、ブーゲンビルの南海洋上で米機に撃墜された。

山本五十六は、開戦当初の真珠湾攻撃で有名だ。このときかれがとった戦略は、近衛文麿に告げたように、洋上の大艦隊の決戦ではない。主として航空機と潜水艦による奇襲作戦だ。つまり、ゲリラ戦である。ゲリラ戦にかけては、楠木正成の戦いぶりはあまりにも有名だ。この点でも、2人には共通性がある。が、その後のミッドウェー海戦で大敗を喫すると、次第に日本海軍の気勢はあがらなくなる。それを何とかもちこたえさせようと五十六は努力した。しかし、その途中で南海の空に散ってしまった。

山本五十六は、新潟県長岡市の出身だ。戊辰戦争のとき、長岡藩は官軍に抵抗した。河井継之助という家老がいて、根気強く官軍に和平交渉をした。

河井継之助
河井継之助

「長岡藩は中立の立場でいたいので、どうかそのまま通過してほしい」と嘆願した。しかし、そんな虫のいい願いは官軍の容れるところとはならなかった。「官軍に従うか、あるいは抵抗するか、どちらかの道を選べ」と迫った。第3の道はないということだ。そこで河井は決意し、スネルというドイツ商人から買いこんだ手廻しのガトリング砲を使ってまで抵抗した。が、やがて長岡藩も敗れた。河井は会津で最後の戦いを挑むべく移動したが、途中で死んでしまう。

新潟県長岡市では、現在、この河井継之助と山本五十六に対する評価は2つに分かれる。1つは、大義に殉じた武士精神を讚える派だ。もう1つはそうでなく、長岡だけでなく新潟一帯が、明治以来、社会資本の投下を制限され、道路、交通機関などをはじめとする地域施設がほとんどかえりみられなかったのは、河井継之助によって長岡藩が賊軍とされたからだ、という派である。

山本五十六についても同じだ。長岡市は終戦直前に米軍の大空襲を受けた。これに対しても、「山本五十六がここの出身者だから、アメリカが報復したのだ」という説を本気で唱えている人が現在でもいる。

そういう地元の感情には、無理もない一面もある。しかし、楠木正成と同じように、山本五十六の人気は遠くに行くほど高まっていく。少なくとも山本五十六を戦争犯罪人と見なす人はそれほどいないのではなかろうか。潔く散った武士として評価は高い。

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