2019年01月04日 公開
やがて、康元元年(1256)、時頼は執権職を祖父・泰時の弟の子、長時に譲った。自分の息子・時宗がまだ幼かったからである。執権職を譲ると時頼は出家した。鎌倉の最明寺に入って覚了房道崇と名乗った。そして、諸国行脚の旅に出た。諸国をめぐっているうちに、青砥藤綱のいったことが身に染みてわかった。時頼は感じた。
「執権は鎌倉にばかりいてはダメだ。諸国の実態を自分の目で見、耳で聞かなければ本当の道理を通す政治はできない。苦しんでいる者を救う政治もできない。青砥は本当にいいことをいってくれた」
嬉しいことがあった。それは信濃(長野県)から鎌倉に戻る途中、下野(栃木県)佐野地方を通ったときである。たまたま、かつてこの地方の豪族だった佐野源左衛門常世という貧しい武士の家に泊めてもらった。佐野は時頼が何者だか知らない。ただの旅の僧だと思った。しかし、佐野は自分の家にあった食料品を全部差しだし、そばにあった鉢から、梅、桜、松の木を抜きとり、ナタで割って焚きはじめた。
「おもてなしは本当に胸に温かく染みました。しかし、あなたのような立派な武士にこのような思いをさせている、鎌倉の執権殿をどうお感じになりますか?」
すると、佐野は目を輝かせてこう答えた。
「わたくしは前執権・時頼様を信じぬいております。あの方は公正な方です。やがてはわれわれにも日の光をあててくださるでしょう。もし鎌倉に何かあったときは、真っ先に鎌倉に駆けつけるつもりです。わたくしはこのような貧しい生活をしていても、弓の手入れを怠らず、また痩せ馬も飢え死にしないように立派に育てております」
「……!」
時頼は感動したまま佐野を見つめていた。翌朝、時頼は丁寧に礼をいって鎌倉に戻った。
やがて、佐野のところに前執権・北条時頼から使いが来た。至急鎌倉に来るようにとの沙汰である。佐野は馬に乗って、手入れの行き届いた弓を携え鎌倉へ走った。そして驚いた。かつて自分の家に泊まった旅の僧が、館の上段に座っていたからである。その旅の僧はいった。
「最明寺入道覚了房道崇だ。かつての執権・北条時頼である。先日は世話になった。礼をしたい」
そういって時頼は、佐野常世に、新しい領地を三カ所、加賀の梅田荘、越中の桜井荘、上野の松井田荘を与えた。
平伏してこの沙汰を聞いた佐野はハッと気がついた。梅田荘、桜井荘、松井田荘、それぞれあの日燃やした梅、桜、松の名がついた土地であった。
(時頼様は、鉢の木のお礼をこういうかたちでしてくださるのだ)
そう感じとると、佐野の胸には時頼の深い愛情が伝わってきて、いいようのない感動に身をふるわせた。
名君には、人望とか能力とかリーダーシップとかいろいろな条件が必要だろう。しかし一番肝心なのは、ポリシー(政治理念)を持つことだ。
北条時頼のポリシーは、
「あくまでも貧しい地方武士の立場に立って、これを守りぬく」
そして、何より、
「公正さを貫き、道理を通す」
ということであった。
※本稿は、童門冬二著『歴史人物に学ぶ 男の「行き方」 男の「磨き方」』(PHP文庫)より、一部を抜粋編集したものです。
更新:11月22日 00:05