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真田信之の末裔に今も伝わる「真田家の家訓」と「伝統のクルミ」

2018年10月19日 公開
2022年02月04日 更新

真田幸光(愛知淑徳大教授/真田信之末裔)


 

現代にも残る真田家「伝統」と「伝承」

真田昌幸は、何か物事を考える際に、クルミを手の中でコリコリと音を立てながら触っていました。カシグルミでは割れてしまうので、オニグルミです。

昌幸は囲碁が好きだったそうです。一人碁を打つ時に、クルミを手の中でコリコリとさせながら、「どうするかな」と考えていたそうです。このクルミは、祖父も父も私も持っています。真田家に代々受け継がれている伝統かもしれません。

真田家にまつわる話は、実は文書で残しているものは少なく、口頭伝承によるものが多いのです。例えば、関ヶ原の合戦で家を分けて生き延びた話。後世の評価は「知略を尽くして生き延びた」と評価する声が多く、私もうれしいのですが、当時の真田昌幸はその結果を喜んでなかったようです。

昌幸は地侍で、いわば野武士の大将のような存在でした。そういう背景もあり、実は野心が強く、息子二人と力をあわせて、三人で天下を取りたいという思いが強かったようです。

ご存知の通り、昌幸の願いは叶わず関ヶ原の後に真田家は分断されてしまったわけですが、これについて真田家に伝わっているお話があります。

真田家に徳川家から嫁入りの話がありました。徳川家の重臣・本多忠勝の娘を信之に、と。天下をうかがいたい昌幸は徳川勢からの嫁入りを強く拒否し、徳川家康に対して「徳川家の家来の娘を嫁としては受け入れられない」と断ったそうです。

しかし、そこはさすがの徳川家康。「わかった! だったら自分の養女にして、私の娘として嫁がせる。これであれば文句はないだろう」と。結局昌幸はこの提案を断りきれず、信之との婚姻を成立したのです。

このことは後々に影響し、関ヶ原では信之は徳川側につかざるを得ず、昌幸は、次男であった信繁とともに豊臣側に加わり、息子二人と力をあわせて天下をとるという願いは崩れさりました。

こんな伝承が真田家には残っているのです。

 

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