2018年11月06日 公開
2018年11月20日 更新
※本記事は、童門冬二著『名補佐役の条件』より一部を抜粋編集したものです。
天正15年(1587)7月14日、豊臣秀吉は九州を平定した。そして大坂に凱旋した。
九州の雄、島津氏を屈伏させた秀吉は、完全に西日本を手に入れた。残るのは、関東の北条氏と、東北の伊達氏だけである。
秀吉は考えた。
「まず北条氏に対して、京都に来て、おれに屈伏することを求める。そして、伊達の出方を見る。もし、北条が京都に来るのを拒否すれば、全軍をあげて北条を攻める。そのとき、伊達政宗に、一緒に北条を攻めろと命ずる。従わないようならば、北条を攻め滅ぼしたあと、伊達も攻め滅ぼす」
このころの秀吉には勢いがあった。いわゆる“乗り”があったのだ。
秀吉に標的とされた北条氏は、当時五代目の当主氏直がそのトップに立っていた。彼は、19歳で父氏政から家を譲られた。秀吉にターゲットとされた天正15年には、彼は26歳だった。そして、そのナンバー2として補佐役の筆頭を務めていたのが松田憲秀である。北条氏直と氏政は凡将だといわれているが、必ずしもそうではない。氏直は、民政においてもすぐれた実績を残したし、また天下の情勢にも明るかった。彼は豊臣秀吉にずっと目を向け、警戒していた。
「やがては、この小田原にもやって来る」
と思っていた。そのために彼は、秀吉がまだ大坂に凱旋しない前から、すでに応戦態勢を整えはじめている。それは、領国内に人夫や兵士の大動員令を出していることからもわかる。同時に、鉄砲をはじめ、武器をたくさんつくらせている。そのために、寺の鐘も徴発している。また、領国内にある城を点検し、こわれているところはどんどん修理させた。大砲の鋳造もはじめている。また、本拠の小田原城に大修築を施していた。
しかし、こういう北条氏の動きを見て心配したのは徳川家康である。彼は娘を当主の北条氏直に与えていたから、いわば氏直は婿だ。しばしば使いを送っては、
「豊臣秀吉公は、あなた方が考えているような人物ではない。はやく都に来て、あいさつをされたほうが無難だ」
と助言している。しかし、プライドの高い北条氏は、一族の意見がうるさくて、たとえ北条氏直ひとりがそう思ったとしても、なかなか実行することは不可能だった。
家康だけではない。豊臣秀吉も直接使いを寄越して、北条氏に上洛を促している。
わたしは、このたび関白として天下の政治を任せられた。すでに箱根から西は全部平定した。東北からも次々と服属を願ってきている。残っているのは、お宅だけだ。はやく上洛して宮中に参内し、天皇に忠節を尽くすことをお誓いになったほうがいい」
天皇に忠節を尽くすことを誓えといっているが、天皇は口実で、自分に忠節を誓えといっているのだ。
そして、秀吉はこうつけ加える。
「もし、いつまでもいまのような態度をおとりになるのなら、天皇から詔をいただいて、征伐に向かうであろう」
完全に威しである。しかし、これは単なる威しではなく、秀吉は実行する気でいた。そうしなければ、ほんとうの「天下人」とはいえないからである。
秀吉がこういう強腰に出られたのには、その直前に徳川家康が彼に臣従したということもあった。徳川家康は自分を高く売りつけるために、ツッパリにツッパった。秀吉がいくら、
「はやく都に来て、わたしの関白就任祝賀パーティーに出てください」
といっても、これに応じなかった。むしろこのころは、自分の娘婿である北条氏直と結んで、「反秀吉連合」を組んでいたといっていい。したがって、秀吉が徳川家康をあくまでも自分の部下として扱いたいという気持ちの裏には、
「このままだと、いつまでたっても関東地方は自分の支配下に入らない」
という危惧があったからである。しかし、その家康もいまは屈伏した。そこで秀吉は、大っぴらに北条氏に対して強い姿勢に出てきたのだ。ところが北条氏のほうは、徳川家康よりももっと態度が強硬で、秀吉に頭を下げる気などまったくなかった。というのも、すでに北条氏は五代目であって、領民に評判もよく、喜ばれるような政治を行なってきていたからである。つまり、関東八州は独立国といってよく、秀吉におせっかいを焼かれなくても立派にやっていけたからである。
更新:11月23日 00:05