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本多正信と壁書十箇条~徳川幕府の基礎を築いた、家康の経営派ナンバー2

2018年10月24日 公開
2018年10月24日 更新

童門冬ニ(作家)


 

戦国派に嫌われた経営派

井伊、本多、酒井、榊原の四人を「徳川四天王」と呼ぶ。そのひとり、榊原康政が慶長11年(1606)5月に癌にかかったときいて、徳川家康が見舞いの使いをよこした。が、普通なら、主人からの見舞いを受けた大名は、どんなに苦しくても床の上に起き上がって、かしこまって見舞いの口上を承るのが常であったが、康政は寝たままだった。辛かったからではない。意識してそうしたのである。見舞いの口上をきいたあと、康政はこういった。

「よくわかりました。が、康政の病気は、ハラワタの腐る病気で、間もなく死にますと、そうお伝えください」

見舞いの使いは変な顔をした。というのは、見舞いの口上に対して、榊原康政がひと言も「ありがとうございます」といわなかったからである。

しかし、この使者をはじめ、この康政のことばをきいた者たちは、康政が何をいいたいのかよくわかった。康政が「おれのハラワタが腐ってきた」というのには深い意味があった。彼は、普段からこう公言していた。

「家康様のおそば近くで、ナンバー2面をしている本多正信という奴は、槍や刀の道はなんにも知らないくせに、読み書きソロバンばかり達者だ。あいつのそばにいると、こっちのハラワタが腐る」

榊原康政のいう本多正信というのは、徳川四天王のひとりに数えられている本多家ではない。その本多は本多忠勝といって、同じ本多でも正信とは違う系列の人物だ。

榊原康政が、

「読み書きソロバンの達者な奴ばかり出世する」

といっているのは大久保彦左衛門と同じで、この時代にはそろそろ戦国派が退場して、代わって経営派が登場してきたということなのである。つまり、時代の空気が一変していた。榊原も同じで、もはや徳川四天王の出番は次第になくなってきていたのである。

それに、徳川家康に対する見方が、徳川四天王の連中は単純だった。家康は確かに「野戦の雄」といわれた。戦さ上手だと讃えられていた。だから、四天王の連中は、

「われわれも、戦さ上手といわれる家康公を支えて、戦さ上手にならなければならない」

と考えていた。したがって、自分たちの生き方を合戦にしぼって貫いてきた。ところが、戦国時代が終わって日本が平和になると、こういうプロフェッショナルの戦争屋は必要なくなる。これから必要になるのは「国の経営」である。だから人材も、「経営能力」のある人間たちが必要になる。経営能力とは、別なことばでいえば、榊原康政がけなす「読み書きソロバン」のことだ。本多正信はそういう時代の空気に望まれて登場してきた、新しいナンバー2である。

徳川家康と本多正信の関係について、のちに新井白石がこんなことを書いている。

「家康様と本多正信とは、“あ・うん”の呼吸で物事を解決しておられた。何もいわなくても、お互いの顔を見ただけで、お互いの考えがわかり、同時にどうすればいいかも、心の中ですでに相談がすんでいたのである」

また、石川丈山が、同じようなことを書いている。

「本多正信は、家康様がおっしゃることで、納得がいかないことや、あるいは反対の気持ちを持ったときは、わざと居眠りをした。賛成のときは、大いに家康様をほめた。しかし、家康様は直接本多正信に対して、このことはどうしたらいいかときかれたこともなかったし、また本多正信が、そのことについて直接意見をいうこともなかった。彼らは、居眠りとほめることによって、その問題に対する答えを相談しあっていたのである」

本多正信をよく知る人は、良い意味でも悪い意味でも彼に「謀臣」という呼称を与えている。

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