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本多正信と壁書十箇条~徳川幕府の基礎を築いた、家康の経営派ナンバー2

2018年10月24日 公開
2018年10月24日 更新

童門冬ニ(作家)

謀臣の本領を発揮

ところが、同じ豊臣方でも、石田三成について噂が立つと、本多正信はまるっきり違った助言をした。石田三成についての噂とは、

「石田三成は、淀川の堤防を切って、徳川家康の屋敷を水攻めにする」

というものである。この噂を本気にして、多くの大名が、これもおためごかしでも家康のところに飛んできた。そして、

「石田三成のことですから、ほんとうにやりかねません。避難なさったほうがいいでしょう」

と助言した。

しかし、家康は、

「いや、それには及ぶまい」

と首を振りながら、しかしそういう大名たちの親切心には感謝した。もちろん単なる親切心ではなく、天下の空気がどういうものか、機敏な大名たちはよく知っていたのである。だから、次の天下人である家康のところに、せっせといろいろな情報を持ってきては、お世辞を使っているのだ。大名たちが帰ると、家康は本多正信を呼んだ。そして正信を脇においたまま、ひとりごとをいった。

「石田三成も、吠えかかる犬を手なずけるように、餌をやったほうがいいかなあ? それとも、思いきりゲンコツで頭をたたきのめしてやったほうがいいかなあ?」

つぶやきだが、もちろんきき手は本多正信ひとりしかいない。正信は、このとき居眠りをしなかった。彼はカッと目を大きく開いて、こういった。

「害を避けることはよいことですが、害を避けることによって、また新しい害が起こります。ものには勢いというものがありまして、これが一度衰えますと、再びこの勢いを増すのは容易ではありません」

これをきいて家康は、

「わかった」

とうなずいた。

本多正信の見るところ、前田利長と石田三成では、その害の程度が違うというのである。同じ吠える犬にしても、前田利長のほうには、頭をなでてやればなつくだけの気持ちがある。しかし、石田三成にはない。ないどころではなく、もし頭をなでようとして手を伸ばせば、おそらくかみつくだろう。その差を正信は知っていた。だから、利長は受け入れても、石田三成は絶対に受け入れてはならないというのだ。むしろ、叩きのめせと助言したのである。

本多正信がそういうのなら間違いはあるまいと、徳川家康は立ちあがった。この決意が、関ケ原の合戦を引き起こす。そして、家康は勝った。

同じようなことを、本多正信は部下にも語っている。それはこういうことばだ。

「夏にしなければいけない修理を冬になってすれば、する人間はくたびれるだけだ。余計な手間や金もいる。大工を見るがいい。木を切るタイミングや、竹を切るタイミングをちゃんと知っている。なんでもすべて時機というものがあるのだ。チャンスを逸したら、そのチャンスは二度とめぐってはこない」

このことばの意味も、家康に対して、

「害を避けるのはいいが、害を避けることによって、また新しい害が生まれます」

といったのと同じである。

関ケ原の合戦は、石田三成と会津の上杉景勝とが、互いに西と東で反乱を起こし、徳川家康をはさみ撃ちにしようという作戦であった。まず反乱のノロシをあげるのは上杉景勝、というふうに決められていた。上杉景勝はこの約束を守って、反乱の意思表明をした。徳川家康は上杉を征伐するために、軍勢を引き連れて東北に向かった。この留守に、今度は石田三成が上方で反乱を起こした。しかし、こんなことははじめから家康の見抜いていたことである。家康は、石田三成が反乱を起こしたという報告をきくと、

「馬鹿め、おれの思う通りになった」

とせせら笑った。

このへんは、幕末、江戸で幕府軍が挑発にのって戦争を仕掛けたという報告をきいて、

「しめた!」

と喜んだ西郷隆盛の反応によく似ている。

徳川家康は、石田三成の反乱をきくと、すぐ上杉征伐をやめて上方に戻ることにした。このとき、次々と出発していく大名たちの中で藤堂高虎を呼び止め、本多正信はこういった。

「どうか、上方の情報を次々と家康公にお知らせください。あなただけを頼りにしております」

藤堂高虎は本多正信を見返し、うなずいた。

「そうしましょう」

藤堂高虎もまた謀臣であった。「謀臣、よく謀臣の心を知る」で、高虎には正信のいうことがよくわかった。それはまた高虎にすれば、ナンバー2の正信から差し延べられた救いの手でもあった。つまり、正信はこういっているのだ。

「関ケ原の合戦がすんで、天下が徳川家康公の手に帰せば、世の中はだいぶ変わってまいります。いままでのようなタイプの大名では務まりません。そこへいくとあなたは、まさに平和向きの大名だ。これからグングン伸びるお方です。そのためには、ここで点数を稼いでおいたほうがいいでしょう。また、わたくしもひとりではなかなか家康公をお支え申すことができません。どうか、これからは力を合わせて家康公を支えましょう。そのために、まず上方での情報をドンドン送ってください」

ということなのである。藤堂高虎は、都市計画や土木技術一筋に生きてきた、いわば技術者である。そういう技術者が、これからは日本でドンドン重く用いられるはずだということを、本多正信は見抜いていた。そして藤堂高虎も、この正信の先の見通しを正しいと思った。高虎自身も、

(これからは、おれのように特別な技術を持っている大名の世の中がくる)

と思っていたからである。

正信と約束した通り、藤堂高虎は上方に着くと、大きな情報、小さな情報を得て、片っ端から家康のところに送った。取り次いだのが正信であったことはいうまでもない。もちろん、正信もただで藤堂高虎に点数を稼がせたわけではない。まず、藤堂高虎からの使者を自分のところに呼んで、情報を全部きいた。そして、自分が間に立って家康の耳に入れるという方法を取ったのである。相当にちゃっかりしている。

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