2018年11月06日 公開
2018年11月20日 更新
松田の献策によって、北条家は小田原城に籠城と決めたが、ちょっと予想しないことが起こった。それは、豊臣秀吉のほうも気長な攻撃をはじめたことだ。一挙に小田原城に攻めかからなかった。彼は、分散している北条の支城を次々と落とした。そして、小田原城を孤立させた。そうしておいて、大軍をもって小田原城を囲み、そのまま攻撃の手を休めてしまった。攻撃軍は、それぞれ各地から商人や女たちを呼んだ。物や酒を売らせ、また踊りや博打に興じた。なかには付近を耕して、野菜を植えるようなのん気な兵士も出てきた。小田原城内の兵糧が尽きるのを待つという作戦である。
小田原城内にも、松田憲秀の意見で、そういう店や、いろいろな娯楽が設けられていた。彼は氏直に、
「城の各口に配置された兵は、そこだけを守るようにして、ほかの口が攻撃されていても、絶対に応援に行かせないようにしてください。それぞれの分を守るのです。ほかの口が攻撃されていても、よその口は、むしろ将棋でもさしているくらいのゆとりを持たせてください」
と進言した。これも変わっている。しかし、その精神をよく理解した氏直は、松田の言に従った。
その意味では、このときのトップの氏直は、完全に松田と気持ちを一致させていた。
しかし、豊臣秀吉は、このふたりをそんな次元ではとらえない。あくまでも裏切らせてやろうと考えていた。したがって、しきりに手を伸ばしてきた。次々と使いが松田のところに来た。
「秀吉公は、もし攻撃軍の一部を、城の中に引き入れてくれるのなら、あなたに伊豆と相模国を差し上げると申しております」
そういう誘いをかけた。
松田憲秀は、延々と続く籠城にそろそろ嫌気がさしていた。
それというのも、その間にもまだ集まっては、
「このまま籠城を続けるべきではない。討って出るべきだ」
とか、
「いや、このまま籠城を続けるべきだ」
と、際限のない論議を繰り返している北条家の幹部に嫌気がさしていたのである。つまり、のちにいう「小田原評定」にあきれていたのだ。その気持ちは、トップの北条氏直も同じだった。
ある夜、松田は自分の息子たちを呼んだ。そして、
「おれは、豊臣軍に内応しようと考えている」
と告げた。長男は、
「賛成です。このままでは北条家もジリ貧で、いまにのたれ死にします」
と応じた。が、次男は、
「そんな武士にあるまじきことはできません。籠城を主張したのは父上ではありませんか。全員が死滅するまでがんばるべきです」
といった。松田は弱ったなと思った。息子たちの意見がこう割れてしまっては困るのだ。そこで、次男を一室に閉じ込めて、内応のしたくにかかった。ところが、この次男が閉じ込められた部屋から脱出して、このことを北条氏政に訴え出た。氏政はびっくりして、松田憲秀とその長男を逮捕した。
結果からいえば、松田憲秀の裏切りは失敗したのである。これが豊臣軍に洩れた。そこで黒田如水が出てきた。秀吉の小田原城攻撃の参謀は、この黒田如水と小早川隆景であった。
「小田原城は、遠まきにして、内部の食糧がなくなるまで待つべきです」
と進言したのは小早川隆景である。
「賛成です。そしてころあいを見て、降伏を勧めるべきです」
といったのが黒田如水だ。黒田は、陣中見舞いだといって、北条氏政の本陣に酒と魚のかす漬けを贈った。すると、そのお礼だといって、氏政から鉄砲の弾や火薬が送られてきた。
「城の中には、こういう弾や火薬がまだたくさんあるぞ」という意思表示である。黒田は、「いただいたもののお礼に伺いました」といって、たったひとりで氏政に会いにいった。色めきたつ城兵を尻目に、黒田はずんずん歩いて、氏政の本陣に入った。たまたまそこに当主の氏直もいた。黒田はふたりに抵抗の無益さを語り、
「城を明け渡しなさい。悪いようにはいたしません」
といった。
氏政と氏直は顔を見合わせて、その場で、
「あなたのことばに従おう」
と決断したという。天正18年(1590)7月6日のことであった。
開城と同時に、北条氏政と氏照とは切腹した。その前に、裏切り者の松田憲秀は処刑された。中にいた城兵たちは、どんどん城の外に出ていく自由を認められた。氏政と氏照の首は京都に送られて、鴨川の岸にさらされた。そして北条氏直は、徳川家康の娘婿だというので命を助けられ、高野山に追放された。一緒に行ったのは北条氏規、氏忠、氏勝たちである。家臣としては、裏切り者の松田憲秀の次男がついていった。数百人の兵が一緒に行ったという。
しかし、冬になって、この連中は寒さに苦しんだ。それを知った秀吉は、もう少し暖かい村に移動させた。やがてはどこかに領地を与えようと考えていたらしいが、その前に、文禄元年(1592)11月4日、北条氏直は天然痘を患って30歳で死んだ。
小田原城に対する豊臣軍の攻撃という未曾有の事態に対して、ナンバー2だった松田憲秀の考えを、彼がそのときにどう評価していたのかわからない。しかし、少なくとも、
(おれは、決して間違ってはいなかった)
と考えていたことだろう。その意味では、こういう時期におけるナンバー2としての松田憲秀の意見も、一概に裏切り者であったとはいいきれないのだ。
更新:11月23日 00:05