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陸奥宗光~幕末・紀州藩を救った男の交渉力

2018年08月20日 公開
2023年10月04日 更新

長尾剛(作家)

陸奥宗光
陸奥宗光乃像(写真提供:和歌山県)
 

紀州藩を救い、条約改正、下関条約締結を成し遂げた「カミソリ大臣」

明治政府において、地租改正等の改革に力を尽くし、不平等条約の改正、日清戦争時の下関条約の締結と、その交渉力をいかんなく発揮した陸奥宗光。「カミソリ大臣」とも言われた彼の交渉力は、戊辰戦争時、故郷の紀州藩をも救っていた──。

長尾剛(作家)
昭和37年(1962)、 東京都生まれ。東洋大学大学院修了。 著書に『話し言葉で読める「西郷南洲翁遺訓」』 『30のエピソードですっきりわかる 「幕末維新」』『戦いで読む 日本の歴史4 徳川の世の はじまりと終わり』などがある。

 

紀州藩主の前に現れた救世主

「紀州藩も、ずいぶんと貧乏クジをお引きになったものでございますな」

京都、本法寺。紀州藩第14代藩主・徳川茂承の前に座した陸奥宗光は、ニヤリと笑うと、皮肉交じりにこう述べた。

茂承の脇にひかえていた家老は、思わず立て膝をつき、

「無礼もの! 貴殿とて我が紀州藩士であろうが!」

と、怒りに声を荒らげた。だが宗光は、かっと眼を見開き、家老をにらんで叫んだ。

「某(それがし)は紀州藩士にあらず。勤王の志士にござる!」

上座で静かに座していた茂承は、今にも宗光に飛びかからんとする家老のほうに手を伸ばし、

「よい」

と制した。そして、安堵とも満足とも思える穏やかな笑みを浮かべた。

「噂に違わぬ、たいした度胸よ。この者ならば我が紀州を救うてくれるやも知れぬ」

茂承はこう考え、宗光をじっと見た。茂承の眼差しに気づいた宗光は、打って変わって真剣な面持ちで茂承と眼を合わせると、あらためて深々と頭を下げた。

「微力ながら、御藩のため力尽くしまする」

慶応4年(1868)。

幕末、日本列島を西から北へと戦火で縦断した日本史上最大の内乱「戊辰戦争」。その口火を切った京都の「鳥羽・伏見の戦い」が、薩長らによる新政府軍の圧勝に終わって間もなくのことである。

この戊辰戦争の中、紀州藩はきわめて微妙な立場に立たされていた。

紀州藩。

紀伊藩とも呼ばれた。江戸時代、紀伊の国一国と伊勢の国南部の広大な領地55万5千石を治めていた大藩である。

歴代藩主は、言わずもがなの徳川御三家のひとつ、紀州徳川家。徳川幕府初代将軍・徳川家康の直系にして、江戸時代を通じ何人もの幕府将軍を輩出してきた名門中の名門藩と言える。

それだけに、幕末の戦乱にあっては、明治天皇を押し立てて新政府軍となっていた薩摩・長州藩らの軍勢と敵対し、あくまでも徳川家に与する軍の一翼を担う藩と、誰からも目されていた。

だが、実態は違っていた。

そもそも江戸の幕府・徳川宗家は、戊辰戦争の前哨戦たる「長州征伐」の時から、紀州藩に莫大な軍資金の供出を命じ、それでいて戦場では指揮の権限を与えず、要するに、紀州藩を一方的にいいように使っていた。紀州藩が、幕府に不信感を抱いたのは言うまでもない。幕府への忠誠心が「冷めて」いたと表してもよかろう。

そうしたわけで、紀州藩は「鳥羽・伏見の戦い」には、出兵しなかった。

だが、戦いが旧幕府軍の惨敗に終わると、会津藩や桑名藩など旧幕府軍のおびただしい数の敗残兵が、紀州藩領へ逃げ込んできた。「徳川御三家の紀州藩ならば、助けてくれるだろう」と。

紀州藩に迷いはなかった。彼らを手厚くもてなした。もちろん「旧幕府軍の側に付く」といった政治的判断からではない。傷つき、拠り所のない敗残兵たちを見捨てるなど、武士の情けとして、とても出来なかったからだ。紀州藩は藩内の寺院や役所を彼らの宿泊所として提供し、食事を与え、看病に努めた。紀州藩が助けの手を差し伸べた敗残兵は、5千7百人を数えたという。

ところが、この「純粋な武士の情け」が、新政府軍の疑いを買った。

「紀州藩は、やはり錦旗に背く賊軍だ。討伐すべきだ」

元より中立的立場を貫こうとしていた紀州藩である。が、やはり「徳川御三家」の看板を背負っているからには、こういう疑いをかけられやすい。紀州藩は窮地に立たされた。

紀州藩主・徳川茂承は、新政府軍から京の本法寺に滞留を命ぜられた。事実上の軟禁である。

「我が紀州を救える者は、おらぬか」

進退窮まった茂承は病まで得、苦しそうに側近の者に問うた。すると一人が答えた。

「新政府軍の重職に、我が紀州出身の者がおると聞き及んでおりまする。名を陸奥宗光と申します」

陸奥宗光。

明治時代に入ってから、かつて徳川幕府が諸外国と交わした不平等条約を、粘り強い交渉によって改正にまで漕ぎ着けた、近代日本屈指の名外務大臣である。

「鳥羽・伏見の戦い」の頃は、岩倉具視の信頼厚く、新政府の外交官として「外国事務局御用掛」の職に就いていた。この時、弱冠25歳であった。

なにゆえ紀州藩出身の彼が、薩長を中心とする新政府軍の要職に就いていたのか。

それは、彼の波瀾万丈の来歴と、クールにして情熱的という強烈な個性、そして、武士の型にはまらない自由奔放な発想とそれを実現する類希な才覚、さらに、それを見出してくれた偉大な友人の尽力による。

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