2018年08月20日 公開
2023年10月04日 更新
和歌山城(写真提供:和歌山市)
陸奥宗光(幼名、牛麿)は、天保15年(1844)、紀州藩士・伊達宗広の6男として生まれた。
父の宗広は、藩の勘定奉行という重職にあった。清廉で有能であるばかりでなく、誰からも敬される優れた教養人であった。が、藩内の政変に敗れ、敵対勢力の姦計によって藩を追われることとなった。宗光、9歳の年である。
この時、宗光は父を陥れた者への復讐心を燃やし、刀を持って家を飛び出そうとした。わずか9歳の子供が、である。家人たちが必死に押し止めたが、このエピソードからも解るように、宗光は生来、激しい熱情の持ち主であった。
流浪の身となった一家は離散し、それぞれが親類縁者を頼って転々とした。宗光は母とともに寂しい少年期を過ごした。
だが、そんな生活にくすぶっている宗光ではなかった。自らの飛躍を夢見て江戸行きを願っていた。とは言え、遊学の費用など賄えるものではない。ところが、15歳の時、大きなチャンスが訪れる。知人の老僧が江戸へ行くという話を知り、頼み込んで供に加えてもらったのだ。こうして宗光の江戸での学問精進の日々が始まった。
文久元年(1861)、父の宗広が赦免され、紀州に戻れることになった。宗光も紀州に戻った。だが父の宗広は、いったんは自らを捨てた紀州に、もはや未練はなかった。彼は脱藩し、京へと向かった。
元もとが、紀州藩は徳川御三家ではあるものの「尊皇」の教えが根付いていた土地柄である。宗広も当時の教養人として尊皇の志を強く抱いていた。彼は、京を拠点として「尊皇攘夷運動」に奔走することを目指したのだ。
宗光もまた、再び江戸へ向かい、さらに父を追って京に居を構えた。ここで、彼は人生の大きな転機となる出会いをする。
父の宗広を慕って出入りする「勤王の志士」たちの中に、その者がいたのだ。
坂本龍馬である。
龍馬は、宗光の非凡さをすぐに見抜いた。
「この男、きっと大きな仕事をするぜよ」
こうして宗光は、龍馬の斡旋によって、勝海舟が開いた「海軍操練所」に入れてもらい、海軍というものを知った。さらに、龍馬に誘われ、龍馬が経営する、当時としては画期的な海運会社「海援隊」に加わる。宗光が陸奥姓を名乗り始めたのも、この頃からである。観念的な尊皇攘夷思想の枠を超えた、より現実的な国際感覚を宗光は身に付けていく。
龍馬は「海援隊の中で、二本差しを捨てても食っていけるのは、わしと宗光だけじゃろう」と語っていたという。宗光の才覚と行動力がどんな状況にあっても通じると、龍馬は高く称していたのである。ちなみに、故・司馬遼太郎の傑作長編小説『竜馬がゆく』の中では、宗光は龍馬の良き相棒として描かれている。
また、この頃から、宗光は土佐藩士を名乗っている。龍馬への敬慕が、もちろんそこには込められている。くわえて、家族を陥れた故郷・紀州藩への忘れられぬ怨嗟の想いが、彼に今更「紀州藩士」を名乗らせることを佳しとしなかった。──とも言えるだろう。
慶応3年(1867)10月「大政奉還」。
江戸幕府は、自らその幕を閉じた。だが徳川宗家は、国の支配をなおもあきらめていなかった。そして、その翌月、11月。龍馬は、暗殺により明治維新をその目で見ることなく落命した。宗光の悲しみは無論、尋常ではなかった。
だが、「海援隊」時代に頭角を現わし、新政府の有力者たちの多くに人脈を築いていた宗光は「鳥羽・伏見の戦い」を余所目に、将来の日本の外交について想いをめぐらせていた。そして岩倉具視に、それを具申した。岩倉は感心し、大いに宗光に期待をかけた。
そんな折である。紀州藩から「助けてほしい」という要請が、彼のもとに来たのは。
紀州藩の使いは、礼を尽くして宗光に頭を下げた。複雑な想いに駆られた宗光ではあったが、藩の存亡がかかっている紀州藩を、やはり見捨てることは出来なかった。
「とにかく、ご藩主にお会いしましょう」
こうして宗光は、徳川茂承に謁見したのである。
更新:11月23日 00:05