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陸奥宗光~幕末・紀州藩を救った男の交渉力

2018年08月20日 公開
2023年10月04日 更新

長尾剛(作家)

陸奥宗光
陸奥宗光(国立国会図書館蔵)
 

海千山千の岩倉具視を説得

「我が紀州に、朝廷へ楯突く意など毛頭ない。その証として、15万両の献金と藩領のうち伊勢の分領である18万石の献上を、朝廷へ内々に申し伝えているのであるが、いまだご返答戴けておらぬ。どうであろう。これだけでは、まだ紀州への嫌疑は晴れまいか」

茂承は、不安に声をややうわずらせ、宗光に懇願するように聞いた。

「ふむ」

宗光はしばし黙考すると、力強く答えた。

「そこまでなさることは、ございますまい」

茂承は、宗光のこの返事に眼を丸くした。宗光は言葉を続けた。

「それだけのご負担をなさっては、紀州そのものが立ち行かなくなりましょう。それよりも、紀州一藩足並みをそろえ、明確な恭順の意を示すことが肝要にございまする。そのためには、ご主君のお気持ちを汲まぬ藩内の造反者は、たとえ身分あってもご隠居いただくべきにございましょう。すなわち……」

宗光はいっそう声を張り上げた。

「紀州一丸となった恭順の藩政改革にございます」

確かに藩内には、旧幕府側に付くことを主張する者もいる。だが宗光の力強い提言に、茂承は覚悟を決めた。

「相解った」

「では、その証として500ほどの先兵を朝廷にお預けください。それを手土産に、某が新政府と話をつけてまいります」

宗光は、茂承の並々ならぬ決意に感じ入ったのである。宗光と茂承、2人のあいだにはもはや一片の疑念も遺恨もなくなっていた。

宗光はすぐさま取って返すと、土佐藩の重職にある後藤象二郎と相談し、岩倉のもとを訪れた。そして、堂々と岩倉を説得した。

「新政府のご政道はいまだ人心を掌握してござらぬ。こんな時に、罪もない藩から藩領や多額の金を召し上げては、かえって人民の尊皇の志を、不安にいたします。それよりも、寛大な処置によって紀州藩を遇し、これよりのち東征の一助としたほうが得策にござる」

「ほほぉ。確かに。さすがは陸奥よの」

海千山千の岩倉も、この宗光の理路整然とした説明に得心した。

かくして茂承は帰国を許され、紀州藩は救われたのだ。

茂承は感謝の意を示し、宗光に1000石もの高禄を与えたいと、伝えた。しかし宗光は断った。

「某は紀州藩士にあらず。勤王の志士にござれば」と。

この後、宗光が提言して実現した紀州藩の改革が、明治新政府にとってモデルケースとなるのだが、それはまた別の物語である。

陸奥宗光。藩の枠を超え、日本を、そして世界を舞台に縦横無尽に駆けめぐった男。あの坂本龍馬をして、希有の人材と認めさせた男。

なお、今年5月に亡くなられた和歌山県出身の歴史小説家・津本陽が、陸奥宗光の生涯を詳らかに、そして敬愛を込めて書き上げた小説があることを、付記しておく。タイトルは『叛骨』。まこと、陸奥宗光の生きざまを、一言で見事に示したタイトルである。
 

新政府のモデルケースになった紀州藩の藩政改革は、かくして行なわれた

明治元年(1868)、京都から和歌山へ帰った紀州藩主・徳川茂承は、陸奥宗光の助言通り藩政改革に着手する。その遂行を任されたのは紀州藩士・津田出。陸奥より12歳年上の蘭学者で、紀州藩の執政に登用されたのである。
津田出はまず、武士の家禄を20分の1に削減し、財源を捻出。それまで絶対的だった士太夫の特権を廃し、四民平等の改革思想を唱える。その考えのもと、軍事制度、教育制度などを見直し、殖産興業を図るのである。
中でも画期的なのが、兵制改革であった。
津田は、近代日本で初めて徴兵制度を採用し、ケッペンというプロシア将校を雇って洋式軍隊を作った。徴兵は、一家の主人などを除き、身分を問わず20歳になった者にはことごとく適用され、計11年を服役年限とした。その結果、兵数は徐々に増え、最終的に2万ほどの精鋭軍隊を作り上げることに成功するのだ。
こうした藩政改革が話題となり、薩摩から西郷従道や村田新八など、多くの要人が紀州を訪れた。やがて明治政府は、紀州藩をモデルケースに、廃藩置県、徴兵制、地租改正を実行し、近代国家を作り上げていくのである。

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