確かに謙信は負け知らずの非常に強い武将です。
それこそ農閑期は毎日のように戦っているのに、一度も負けたことがありません。その上、彼は馬術の達人でもありました。
だからといって、死なないと信じていたというのは、あまりにも極端なのではないか、と思われた方もいることでしょう。
でも、実は謙信はこの一騎打ちの他にも、「自分は絶対に敵に殺されることはない」と心から信じていないとできないような行動を取っているのです。
それは、関東に北条攻めに行ったときのことです。
謙信は、わざわざ酒瓶と杯を持って、一人で敵の城に近づいて行ったのです。そして、敵の射程距離内に入ると、地面にどっかと腰を下ろして、悠々と持参した酒を飲み始めたのです。
北条軍がいくら籠城を決め込んでいると言っても、敵の大将がたった一人で射程距離内に来てくれているのです。こんな好機はありません。当然のことながら、北条軍は一斉に弓や鉄砲を謙信めがけて討ち込みました。
ところが雨あられと敵の矢弾が降ってきても、なぜか謙信には当たりません。そして酒を全部飲み干すと、謙信は自分の陣に戻り、「どうだ、俺に弾は当たらなかっただろう」と言ったというのです。自分は死なないと信じていなければできない芸当です。
では、謙信はなぜそこまで自分のことを信じることができたのでしょう。
私は、これは謙信の強い信仰心と深く関わっていると思っています。謙信は毘沙門天を篤く信仰していました。毘沙門天は軍神です。それを篤く信仰する自分は、神の力によって守られている、だから決して敵に討たれて死ぬようなことはないと「信じた」のでしょう。
神を信じるということは、神の力、つまり加護を信じるということだからです。
他の人から見れば、危険きわまりない無謀なことでも、謙信にとってはそれは無謀な行為ではなかったのです。
さらに、謙信の信仰というものをもう少し掘り下げてみると、毘沙門天信仰は、どうも「公的な信仰」であり、謙信自身は飯縄権現を強く信仰していた可能性が高いのです。
事実、上杉軍の旗印は毘沙門天の「毘」ですが、謙信が愛用した兜かぶとの前まえ立だては飯縄権現でした。謙信というと、頭巾姿が有名なので、兜をかぶっている姿がイメージしにくいかも知れませんが、謙信の兜の前立は、山形県米沢市の上杉神社の宝物殿で展示されています。ちなみに、「愛」の前立で有名な直江兼続の兜もこの宝物殿で見ることができます。
兜の前立というのは、それをかぶる武将の目印であるだけでなく、武運を祈るための一種の呪具だとされています。つまり謙信は、戦勝の神である飯縄権現に自分の武運を託していたということです。
そして、この飯縄権現の最大の特徴というのが、この神を一心に信仰する者は神通力(超能力)を得ることができるというものなのです。
しかし、この神通力を得るためには、「ケガレ」を持つ存在である「女性」とは、一生関係を持ってはいけない、とされているのです。
思い出してください。謙信は生涯不犯、つまりまったく女性と接しない人生を貫いています。これはあくまでも私の推測ですが、そうした厳しい決まりを守って信仰していたからこそ、謙信は神の、飯縄権現の加護を心から信じることができたのではないでしょうか。
※本記事は井沢元彦著『学校では教えてくれない戦国の授業』より一部を抜粋編集したものです。
更新:11月22日 00:05