2018年05月07日 公開
2019年04月24日 更新
徳川家康、大坂夏の陣で討死?
慶長20年5月7日(1615年6月3日)、大坂夏の陣で天王寺・岡山の決戦が行なわれました。真田信繁、大谷吉治、御宿勘兵衛ら大坂方の諸将、本多忠朝、小笠原秀政ら関東方の諸将が討死した激戦です。大坂夏の陣というとどうしても大坂方ばかりが注目されがちですが、今回は関東方の小笠原秀政の奮戦をご紹介しましょう。
5月7日の天王寺の戦いに、信州松本8万石藩主の小笠原秀政は、決死の覚悟を固めて臨んでいました。というのも前日の若江の戦いに遅れたことを徳川家康から叱責されて、深く恥じていたのです。
秀政の正室・登久姫は家康の亡き長男・松平信康の娘でした。つまり家康にとって秀政は孫娘の婿であり、夫婦の間に生まれた長男・忠脩(ただなが)は、家康の曾孫ということになります。
その忠脩は、当時22歳。冬の陣に参戦したものの、夏の陣では父・秀政から居城・松本城の留守を任されていました。ところが忠脩は城の守備をなげうち、幕府に届けもなく戦場に現われます。家康の曾孫とはいえ、軍令違反に問われるのは必至でした(家康は評価したという話もあります)。
そんな小笠原父子は、それぞれに夏の陣が自分の最後の晴れ舞台と捉えていたのでしょう。小笠原父子に限らず、この戦いを自分の最後の功名の機会として戦場に臨んだ者は少なくなく、それだけに夏の陣は史上稀に見る激戦となりました。
決戦当日。小笠原隊は最前列の本多忠朝隊に続く位置で、大坂方の毛利勝永隊と向き合っていました。本多隊の物見が前方に出たのを、毛利の鉄砲隊が応射したところから戦いの火蓋が切られます。
毛利勝永は果敢に本多忠朝隊に襲い掛かりました。 本多隊が崩れるのを見た小笠原秀政は、その救援に向かったところ、毛利隊の隣に布陣していた木村宗明隊が猛攻します。木村宗明は前日の若江の戦いで討死した木村重成の叔父でした。木村隊の突入で乱戦の中、小笠原忠脩は討死、父親の秀政も重傷を負いました。秀政はそのまま後方に移されますが、手当ての甲斐なく息を引き取ります。享年47。
さて、これで終われば「小笠原父子、奮戦の末に討死」で幕が下りるわけですが、話はこれだけでは終わりません。とはいえここからは、眉につばをつける心持ちでお読みいただいたほうがよいかもしれません。というのも、大坂夏の陣で徳川家康は討死していたという話があるのです。
実際、真田信繁に本陣を蹂躙された家康は、馬票も倒され、恐慌状態で南へ逃れました。この時、近習に「腹を切る」と口走ったともいいます。そして乱戦の中、家康の駕籠に敵が槍を突き入れ、家康は絶命したというのです。この時、槍を入れたのは後藤又兵衛といわれますが、又兵衛は前日、道明寺で討死しています。
それはともかく、絶命した家康は堺に運ばれ、密かに南宗寺に葬られたといいます。その証拠に南宗寺には、家康の墓と称されるものがあり、戦後、2代将軍秀忠、3代将軍家光がわざわざ寺を訪れました。今も2人の将軍が入った坐雲亭という建物も残ります。
では、その後、1年間生きた家康は誰だったのか。その家康の影武者を務めた者こそ、夏の陣で討死したと伝えられている小笠原秀政であったという話があるのです。
しかし、秀政は当時、47歳。夏の陣の時に家康は73歳。かなり無理があるように思えます。 むしろなぜ、47歳の秀政が影武者だったという話になったのかが興味深いところかもしれません。仮にそれが事実であれば、秀政は翌年、役割を終えて死んだことになるのでしょうか。
後年、小笠原家が改易の危機に瀕した時、「父祖の勲功」に免じて許されたといわれますが、その勲功が秀政の影武者を指しているのかどうか、真相はもちろん歴史の闇の中です。
更新:11月21日 00:05