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大坂夏の陣、天王寺の戦い~真田幸村が討死

2017年05月07日 公開
2019年04月24日 更新

5月7日 This Day in History

真田幸村

今日は何の日 慶長20年5月7日

「真田、日本一の兵よ」

慶長20年5月7日(1615年6月3日)、大坂夏の陣の天王寺の戦いで、大坂方の真田幸村(信繁)が討死しました。この日は大坂方の大谷吉治(大谷吉継の息子)、御宿政友、関東方の本多忠朝、小笠原秀政らも討死した、激戦として知られます。なお真田幸村の名は、実際は信繁が正しいのですが、ここでは幸村で通します。

前日の道明寺の戦いで、濃霧のために進軍が遅れ、孤軍の後藤又兵衛を死なせてしまった幸村や毛利勝永は、忸怩たる思いを抱き、最終決戦となる5月7日の戦いにすべてを賭ける気でいました。関東方と対峙する最前線の天王寺に毛利隊、その東に昨日討死した木村重成の叔父・木村宗明が復仇の念を抱いて連なり、毛利隊の西の茶臼山には幸村の真田隊が陣取ります。幸村や毛利らが立てたおよその作戦は、天王寺の狭い丘陵地にできるだけ敵を引きつけて叩き、敵の布陣が伸び切った横腹もしくは背後を、迂回した明石掃部隊が衝き、敵を大混乱に陥らせたところで、家康本陣を衝く、というものです。

この戦いの狙いはただ一つ、家康の首。大坂方5万の起死回生は、それ以外にありません。 一方、15万の関東方の最前線には、本多忠朝、松平忠直、小笠原秀政らが並びます。いずれも昨日、もしくは冬の陣の戦いぶりで家康から叱責され、名誉回復に臨む者たちでした。

5月7日早朝。真田隊の茶臼山は真紅に染まりました。真田隊の甲冑、旗指物すべて赤で統一した赤備えが一斉に旗を立てたのです。真田は上田合戦で二度も徳川の精鋭を撃退した、家康にとっては「鬼門」のような家でした。またこの日の幸村の鹿角の兜の錣部分には、白熊と呼ばれる白い毛がつけられていました。白熊の兜といえば、かつて真田が仕えた名将・武田信玄を想起させます。そう、おそらく幸村は、三方ケ原で徳川軍を粉砕した信玄にあやかって白熊の兜をかぶり、祖父・幸隆、父・昌幸以来培ってきた、真田家伝来の兵法のすべてを駆使して、最後の戦いに臨む覚悟でいたのです。

戦端が開かれたのは正午頃、押し寄せる関東方への毛利隊の銃撃でした。先手を取った毛利隊は関東方先鋒の本多忠朝を討ち取り、続く小笠原隊を木村宗明隊が壊滅させます。一方、真田隊は松平忠直隊と衝突しますが、隣接する毛利隊の奮戦は凄まじく、関東方二番手の榊原、仙石、諏訪隊も壊滅させ、その混乱は松平忠直隊にまで及びました。この機を逃さず、幸村は配下に口々に叫ばせます。

「浅野殿がお味方についたぞ」

松平隊は背後の浅野長晟隊の裏切りと聞いて、浮き足立ちました。幸村の謀略です。間髪入れず真田隊は松平隊を突破、真紅の怒濤と化して敵を蹴散らし、家康本陣へと殺到しました。家康本陣は恐慌状態に陥り、三方ケ原合戦以来倒れたことのない金扇の馬印が倒れます。家康の目に真田隊は、「武田赤備え」の再現と映ったことでしょう。家康の旗本たちはわれ先に逃げ、家康も騎馬で逃げる最中、何度も切腹を口走ったといわれます。真田隊は三度もの猛攻をかけますが、あと一歩のところで家康に逃げられました。さしもの幸村も満身創痍となり、安居天神まで後退して力尽き、敵兵に討たれました。

突撃の合図を待っていた明石掃部が斬り込んだのは、この頃だったと思われます。松平忠直隊を痛撃した明石は、そのまま消息を絶ちました。最後まで前線で指揮を執り、敗残の将兵をまとめて大坂城に退却させたのは、毛利勝永でした。その采配を黒田長政が、称賛したといいます。毛利は翌日、豊臣秀頼と運命を共にしました。また家康を追い詰めた幸村については、島津忠恒が「真田、敵ながら天晴れ。日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)よ」と賛辞を贈っています。

まさに戦国の最後を飾るに相応しい、最大級の激戦でした。

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