2018年04月17日 公開
2019年03月27日 更新
丹羽家家中として戊辰戦争を戦った二本松少年隊の像
元亀2年4月18日(1571年5月11日)、丹羽長重が生まれました。織田信長の家臣・丹羽長秀の息子で、浅井畷の戦いの活躍で知られます。
丹羽長重は元亀2年、丹羽長秀の長男に生まれます。幼名、鍋丸。通称、五郎左衛門。母親は織田信長の養女(姪)でした。天正11年(1583)、13歳の時に、父・長秀とともに賤ヶ岳の合戦に参加します。天正13年(1585)に長秀が病没すると、父の遺領の越前の大部分と加賀の能美郡を受け継ぎますが、家臣の軍律違反を羽柴秀吉に問われて、加賀松任4万石に大減封され、重臣たちも秀吉に奪われました。その後、小田原征伐や朝鮮出兵に参加した功で、加賀小松12万石に加増移封となります。また従三位、参議、加賀守に上り、小松宰相と称されました。
慶長3年(1598)に秀吉が没すると、長重は徳川家康より前田利長の監視役を密かに命ぜられたといいます。長重の丹羽家は、父・長秀の晩年より、前田家とは仲が良くありませんでした。さらに長秀の時代には越前・若狭・加賀2郡などを合わせて120万石の大大名であった丹羽家が一転、小松12万石に縮小する一方、前田家は80万石の大大名として北陸に君臨しています。こうした経緯もあり、丹羽長重と前田利長はどちらも信長の娘を正室とする義兄弟でありながら、極めて不仲となっていました。
そして慶長5年(1600)、上杉討伐にあたり、家康は、すでに徳川に屈している前田利長に対し、「上杉討伐に北陸諸将を率いて参戦」するよう命じます。前田利長はこれを受けて、北陸諸将に参戦を呼びかけますが、丹羽長重は反発しました。そもそも家康は自分に利長の監視を命じていたはずなのに、その利長に従えとはどういうことか? 利長が家康につくというのであれば、自分は敵に回ろう。長重はそう決断します。
やがて石田三成らが起つと、長重は西軍につくとは表明せずに籠城しました。これに対して前田利長は、2万5000の大軍で金沢を発し、東軍につくと表明していない長重を攻めようとします。対する長重は3000ですが、居城小松城は「北陸無双の城」と謳われる堅城であり、手に余ると判断した利長はまず山口宗永の大聖寺城を落としました。
さらに南下を図る前田利長のもとに、西軍の大谷吉継率いる4万の軍勢が金沢に攻め込むという情報が入り、慌てて軍を反転します。これは大谷吉継の謀略でした。そして金沢へ急ぐ前田勢を待ち構えていたのが、小松城の長重です。前田利長は小松城に別働隊を派遣して、その間に本隊は迂回しつつ金沢を目指すことにしますが、別働隊は小松城東の浅井畷の湿地帯で長重の伏兵に遭い、散々に打ち破られ、利長は辛うじて金沢に戻りました。
ただしその後、長重は利長と和睦を結び、東軍に近づこうとします。この時、後に加賀藩主となる前田利常(利長の弟)が長重のもとに人質に出され、長重は少年の利常に梨を切って与えたという話が伝わっています。
結局、関ケ原合戦は東軍の家康の勝利となり、前田勢の本戦参加を食い止めた長重は、所領を没収されて江戸に蟄居することになりました。しかし家康の息子・秀忠は長重に好意的で、江戸で暮らすことを勧めたのも秀忠であったといいます。
慶長8年(1603)、長重は常陸古渡に1万石を得て大名に復帰し、また大坂の陣で武功を挙げると、元和5年(1619)には常陸江戸崎2万石に加増移封となりました。さらに、元和8年(1622)に陸奥棚倉5万石に加増移封、寛永4年(1627)には陸奥白河10万700石に加増移封となり、白河城を築城します。
寛永14年(1637)、長重は白河で没しました。享年67。跡は息子の光重が継ぎ、光重は陸奥二本松10万石に移封となって、丹羽家は幕末まで二本松藩主として続きました。なお、戊辰戦争の折の有名な二本松少年隊は、丹羽家の家中です。
更新:12月04日 00:05