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藤田小四郎の生涯~天狗党の乱・攘夷実行の魁たらん

2018年03月27日 公開
2019年02月27日 更新

2月23日 This Day in History

水戸・回天神社

回天神社(茨城県水戸市)
安政の大獄、桜田門外の変、天狗党の乱などで国事に殉じた水戸藩士を中心とした志士を祀る。社名は藤田東湖の『回天詩史』に由来。
 

今日は何の日 元治2年2月23日
水戸天狗党・藤田小四郎が没

元治2年2月23日(1865年3月20日))、水戸藩士・藤田小四郎が没しました。尊王攘夷を掲げて筑波山で隆起した天狗党のリーダーとして知られます。
 

小四郎、藤田東湖の四男として生まれる

藤田小四郎は天保13年(1842)、水戸藩主・徳川斉昭の側用人であった藤田東湖の4男に生まれました。諱は信(まこと)。母親は東湖の妾で、小四郎が2歳の時に暇を出されています。東湖には4人の男子と5人の女子がおり、長男は早世して次男が健二郎、三男が大三郎、四男が小四郎ですが、小四郎の才気は嫡出の二人の兄を凌ぎ、東湖も最も期待していました。

小四郎の子供の頃の逸話には、その才気で大人をからかうようなものも少なくありません。 ある時、客と酒を飲んでいた東湖が手を叩くと、奥方が「何の御用でございましょうか」と声をかけます。すると廊下で遊んでいた小四郎は「母上、お手が鳴ったら銚子と悟れ」と唄い始め、怒った東湖に追いかけられたこともありました。

ともあれ、水戸の藤田東湖といえば会沢正志斎と並ぶ水戸学の大家として、全国の尊王攘夷の志士たちが仰ぎ見る存在です。小四郎もその影響を受けないはずはなく、祖父・幽谷の水戸学を父・東湖が広め、さらに自分はその実践者たらんという思いを抱いていたようです。安政2年(1855)、小四郎14歳の時に安政の大地震で父・東湖を失いました。その頃から小四郎は藩校・弘道館に通い、東湖の従弟にあたる原市之進に学んでいます。
 

桂小五郎、久坂玄瑞との交流

安政5年(1858)の水戸藩への密勅降下(戊午の密勅)とそれに対する幕府の弾圧(安政の大獄)、さらに安政7年(1860)の水戸浪士らによる桜田門外の変など、若い小四郎の目前で世の中を震撼させる事件が次々と起こり、多くの水戸の志士たちが倒れていきました。 そして文久2年(1862)には、将軍後見職に就任した一橋慶喜(徳川斉昭の実子)の上洛に伴い、水戸藩主・徳川慶篤と水戸藩士も多数上洛することになり、21歳の小四郎もその中に加わります。

小四郎は京都で、長州の桂小五郎や久坂玄瑞をはじめとする諸国の志士たちと交わり、尊王攘夷の実行をいよいよ強く考えるようになりました。桂と初めて対面した時には、「あなたが、かの東湖先生のご子息か」と感慨深げに語りかけられたといわれます。その頃の小四郎はといえば、中肉中背で鼻は平たく、目は丸く大きくて眉毛は太く、口が大きかったと記録にあります。風采はあまり上がりませんが、剣も槍も弓も得意で書をよくし、さらに弁舌は爽やか。酒は好きな方で、風呂から上がると褌一つでよく行灯に絵を落書きしました。
 

攘夷実行の魁たらん

文久3年(1863)5月に小四郎は江戸に戻りますが、幕府は朝廷と約束した攘夷を実行する様子がありません。もちろん即時攘夷が不可であることは、見識のある者は承知しており、長州藩などがことさらに攘夷を言い立てるのは、幕府を窮地に追い込む手段でした。しかし御三家の水戸藩は、幕府の政道に意見を言うことはあっても、幕府を否定する立場ではありません。

小四郎らが最も問題視したのは、生麦事件(文久2年に島津の行列の前を横切った英国人が薩摩藩士に殺傷された事件)の賠償金100万両を、イギリスの恫喝に屈して支払うような幕府の弱腰でした。折しも幕府の方針であったはずの横浜の鎖港も、実現の見通しが立っていません。こうした事態に小四郎ら水戸藩の有志は危機感を抱き、外国の侵略を許さず、弱体化した幕府の尻を叩き、「攘夷実行の魁たらん」として決起することを決めるのです。
 

天狗党決起と小四郎の最期

小四郎が作成した檄文は次のようなものでした。

「方今夷狄は一日より甚だしく、人心は目前の安きを偸(ぬす)み、之に加うるに奸邪勢に乗じ、庸懦権を弄し、内憂外患日増しに切迫し(中略)、必死の病固(もと)より尋常薬石の療するところに非ず、非常の事を成さずんば決して非常の功を立つることを得ず」

小四郎は北関東各地を遊説して軍資金を集め、筑波山に集結した62人の同志とともに挙兵しました。時に小四郎、23歳。年齢が若すぎては統率しにくいということもあり、主将は水戸町奉行・田丸稲右衛門を擁します。水戸藩内で小四郎ら尊王攘夷派は「天狗」と呼ばれていたことから、彼らは天狗党と呼ばれました。

小四郎の挙兵には各地から浪士や郷士、農民らが続々と参加し、その数は1500人にまで膨れ上がります。このため多くの軍資金が必要となり、また必ずしも思想的に一つではなかったことから、町民に多額の献金を強要し、乱暴狼藉を働く者も現われて、天狗党は暴徒の集まりと見なされることになりました。さらにこれを巧みに利用して、水戸藩内の保守派(諸生党)は幕府に天狗党を暴徒として追討させるように仕向けます。このために水戸藩内の対立と憎しみが深まりました。

天狗党は諸藩の追討を斥けながら、なりゆき上やむなく合流することになった武田耕雲斎を筆頭に、自分たちの立場・目的を正しく表明すべく、京都の一橋慶喜を頼みとして上洛行を開始します。武田の統率のもと、かつて乱暴狼藉を働いた天狗党は一変して、軍紀厳粛な集団となり、諸藩の追撃を受けながらも中山道を西に向かいます。

ところが一月以上かけて京都に近づいたところで、頼みとする一橋慶喜が討伐に乗り出していることを知り、彼ら800余名は越前で加賀藩に降伏しました。加賀藩は天狗党に温情をもって接しましたが、後を幕府軍が引き取ると彼らをニシン蔵に押し込めた上、元治2年2月23日、350人あまりを斬首、その中には副将格の小四郎もいました。享年24。

「かねてより おもいそめにしまごころを けふ大君につげてうれしき」

小四郎の辞世です。

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