2018年02月18日 公開
2019年01月24日 更新
慶長5年(1600)の関ケ原合戦の折。秀忠軍の遅れに清洲城で苛立つ家康に、秀忠軍を待たず東軍の士気の高いうちに決着をつけることを進言したのは直政だといわれます。しかし秀忠の徳川軍主力を欠いて決戦に臨めば、武功は豊臣恩顧の大名のものになりかねません。そこで一計を案じた直政は決戦の朝、家康の4男・松平忠吉を連れて前線視察と称し、先陣を務める福島正則隊の前に出ると、抜け駆けで西軍に鉄砲を撃って、戦端を開きました。徳川勢によって口火が切られたことで、「この戦の主役は徳川である」と印象づけたのです。
さらに合戦の終盤、家康本陣をかすめて敵中突破を図る島津義弘隊を追撃したのが、直政でした。直政にすれば忠吉の武名を上げるとともに、合戦の締め括りを高名な島津義弘を討つことで、東軍すなわち徳川の勝利であると印象づけようとしたのかもしれません。しかし、敵もさるもの。直政は島津豊久らによる決死の「捨てがまり」で迎撃され、忠吉とともに負傷し、追撃を断念しました。
家康は直政の働きについて、「まことに開国の元勲に候」(『井伊家系譜』)と激賞し、直政を高崎から近江佐和山18万石に加増転封します。いうまでもなく佐和山は西軍の中心であった石田三成の居城であり、家康はここに直政を置くことで、勝利者の威光を天下に示し、大坂城の豊臣方を牽制しようとしたのでしょう。
かつて毛利家を支えた小早川隆景は、「直政は小身なれども、天下の政道相成るべき器量あり」(『名将言行録』)と評したといいますが、直政は「井伊の赤鬼」としてだけでなく、政治力、外交能力にも非常に長けた、逸材として同時代人から評価されていたことがわかります。
関ケ原合戦から4カ月後の慶長6年(1601)正月、直政は佐和山城に入りますが、新たに平山城を築くことを決め、とりかかろうとした矢先、関ケ原で受けた鉄砲傷が悪化して、慶長7年(1602)に没しました。享年42。家康は直政の死をいたく悲しみ、惜しんだといわれます。
更新:11月22日 00:05