2018年02月18日 公開
2019年01月24日 更新
永禄4年2月19日(1561年3月4日)、井伊直政が生まれました。徳川四天王の一人に数えられ、「井伊の赤鬼」の異名で知られますが、単なる野戦指揮官だけではなかったようです。
井伊直政は永禄4年、今川家の武将・井伊直親の長男として、遠江国井伊谷に生まれました。幼名、虎松。 しかし直政誕生の翌年、父・直親は今川氏真から謀叛を疑われて討たれます。井伊家は直親の従兄妹・次郎法師が直虎と名を改めて当主となりました。直虎は女性です。
永禄11年(1568)、井伊谷は今川氏に奪われ、8歳の直政も命を狙われますが、井伊直虎の養子となって成長します。天正3年(1575)、15歳の直政は、鷹狩中の徳川家康に見出され、仕えることになりました。家康は旧領の井伊谷を直政に戻してやり、小姓とします。
その後、直政は徳川家の若武者として武田勝頼との戦いで武功を上げ、天正10年(1582)、養母の直虎が没したため、22歳で井伊家の家督を継ぎます。同年の本能寺の変の際には、伊賀越えに同行して家康の身辺を守りました。
同年冬、甲斐を経略した家康は、滅亡した武田家の旧臣に人材を求め、74人の武田遺臣を召し抱えます。そして彼らを、若年ながら群を抜く器量を表わし始めた直政に託し、「武田の赤備え」にあやかった赤備え部隊の編制を命じました。新参者の直政の抜擢に、譜代の榊原康政が妬みますが、それを耳にした酒井忠次が榊原を一喝したといいます。直政は酒井からも高く評価されていました。かくして甲冑、陣羽織、旗指物から、刀槍の外装、母衣(ほろ)、馬具、鞭に至るまで、すべてを赤一色に統一した「井伊の赤備え」が誕生するのです。
井伊の赤備えが天下に知られる機会は、2年後の天正12年(1584)、羽柴秀吉との小牧・長久手合戦で訪れました。 戦線の膠着に秀吉は、三好秀次、池田恒興、森長可らの別働隊に家康の本拠・三河を衝かせようとしますが、家康はこれを察知し、自ら軍を率いて三好らの別働隊を追います。その先鋒に、直政の赤備えがいました。そして白山林で三好隊を潰走させた徳川軍は、長久手において池田、森隊と衝突。この時、赤備え3000を率いる直政は自ら先頭に立って、池田隊4000へと殺到し、奮戦します。
「井伊が赤備長久手の巽よりゑいとうゑいとうとかけ声して堀(実際は池田隊)に競いかかる」(『徳川実記』)。
直政らが敵を突き崩す戦況に、家康も自ら森隊を襲って、およそ一刻で戦いは徳川軍の圧勝となりました。この時の直政の奮戦で「井伊の赤備え」は天下に知られ、先頭を切る、赤い兜に角のような金の天衝きを配した姿の直政は、「井伊の赤鬼」と呼ばれることになるのです。
小牧・長久手は、戦いそのものは家康の勝ちでしたが、家康と同盟する織田信雄が勝手に秀吉と講和したため、政略的には秀吉が上回りました。家康を臣従させたい秀吉は、実母・大政所を人質として家康のもとに送ります。その応接役を務めたのが、直政でした。直政は極めて丁重に大政所をもてなし、大政所や侍女たちの信頼を得ます。
和解が成り、大政所が大坂に帰る際も、懇願されてその警護役を務めました。そのことを知った秀吉も直政に感謝し、自ら茶を立ててもてなそうとしますが、その席に前年主家を出奔した石川数正がいるのを見た直政は、数正が同席することを強い口調で拒絶したといいます。
その後、小田原攻めの際には、直政は秀吉軍の中で唯一小田原城内に攻め込む働きを見せ、家康が関東に移封になると、直政は上野国箕輪12万石を与えられます(城は後に高崎に移す)。徳川家臣団の中で10万石以上を与えられたのは、直政と本多忠勝、榊原康政だけです。
更新:11月22日 00:05