慶応2年1月23日(1866年3月9日)、坂本龍馬と三吉慎蔵が伏見の寺田屋に止宿中、伏見奉行所の捕り方に踏み込まれる、寺田屋襲撃事件が起こりました。薩長同盟締結直後の出来事でした。
伏見の寺田屋は、江戸時代初めからの船宿といわれます。伏見は京と大坂を結ぶ舟運で栄え、大坂から淀川を遡ってきた過書船が伏見港で荷揚げし、荷物を高瀬船に積み替えて京都市中へ運ぶ中継地点でした。また過書船の中で最小の三十石船は旅人専用の船で、定員28名、水夫4人が乗り込んで、伏見と大坂八軒家間を1日2回、昼と夜に運航していました。その船着場となったのが伏見の京橋で、船宿や旅籠が39軒も建ち並んでいたといいます。中でも大きな宿が6つあり、その一つが寺田屋でした。
寺田屋は薩摩藩の指定宿でもあり、大いに繁盛しましたが、幕末に2度、大きな事件の舞台となります。一つが文久2年(1862)春の、薩摩藩国父・島津久光の率兵上京の際に起きた、薩摩藩士の同士討ちである「寺田屋事件」です。9人の藩士がここで命を落としました。当時、寺田屋にはお登勢という名物女将がいて、亭主を失って後、一人で宿を取り仕切っていたといいます。非常に面倒見がよく、捨て子を育てたり、志士たちを匿ったりもしていました。坂本龍馬もお登勢を「おかあ」と親しみを込めて呼んだといいます。
龍馬は元治元年(1864)8月頃、お登勢に頼んで、恋仲の娘を宿に置いてもらいました。娘の名は龍。京都の医者・楢崎将作の娘で、将作の死後、一家離散の憂き目にあっていたところ、龍馬と知り合ったのです。義侠心に富むお登勢はこれを快諾しました。お龍は住み込みの仲居として寺田屋で働くことになり、やがて龍馬を絶体絶命の危機から救うことになります。
慶応2年(1866)1月22日、龍馬は京都で幕末史の一つのエポックとなる大仕事を成し遂げました。犬猿の仲の薩摩藩と長州藩の手を組ませる「薩長同盟」の締結です。翌23日、龍馬は伏見の寺田屋に戻り、成功を祝って、彼の護衛役である長府藩士・三吉慎蔵やお龍らと、2階の部屋で八つ半(午前2時頃)まで酒を飲み語らっていました。
異変にまず気づいたのは、お龍です。小宴も果て、風呂に入ろうとしていたお龍が、窓の外を見ると、宿を多数の提灯が囲んでいます。即座に彼女は着物もまとわずに2階に駆け上がり、捕り方に囲まれていることを龍馬に報せました。当時、龍馬は要注意人物として幕府方からマークされており、新選組や京都見廻組、奉行所から狙われていたのです。
ほどなく、奉行所の捕り方が寺田屋に踏み込み、龍馬らのいる2階の座敷に向かいました。灯りを消した座敷を、捕り方の龕灯提灯が照らす中、死闘が始まります。部屋に踏み込んできた捕り方に龍馬は短銃で、三吉は手槍で応戦、龍馬は左手に負傷しました。捕り方にも死傷者が出て怯んだところ、二人は闇に紛れて脱出。目指したのは、1kmほど北にある薩摩藩伏見屋敷でした。
寺田屋の200m北西に芸州浅野屋敷があり、その西側は濠川に面しています。龍馬と三吉は川を泳いで渡り、対岸の材木小屋に身を潜めます。材木小屋にたどり着いた龍馬は、出血と疲労で身動きができなくなりました。三吉はすぐに発見されるだろうから、潔く切腹しようと言いますが、龍馬はそれを制し、一人で薩摩屋敷に向かうよう勧めます。三吉は承知し、龍馬を残して救援を求めるべく北上します。
空が少し白み始めた頃、三吉がようやく薩摩屋敷に駆け込むと、薩摩屋敷にはすでに危急が伝わっており、救援の手勢が出発していました。伝えたのは、お龍です。彼女は寺田屋の2階に駆け上がり、龍馬に急を告げると、自分の判断で外に飛び出し、薩摩屋敷に駆けていたのです。見事な機転でした。
薩摩屋敷では留守居役の大山彦八が救援態勢を整えて、2人の行方を捜しており、三吉から龍馬の居場所を聞くと、藩の旗を掲げた船を仕立てて川を下り、龍馬を救出します。ちなみに大山は大山弥助(巌)の長兄で、西郷吉之助(隆盛)の従兄弟でした。
薩摩屋敷に保護された龍馬は、数日間、お龍の手厚い看護を受けて過ごし、やがて西郷のはからいで、3人は京都の薩摩屋敷へと移ります。そしてこの事件をきっかけとして、龍馬は命の恩人のお龍を妻に娶りました。 一つ間違えば凄惨な事件になるところでしたが、龍馬とお龍を結びつけた幕末のエピソードとして、多くの人に好まれる話です。
更新:11月21日 00:05